1973年9月17日(月)当局は危険な状態を予想。ロックアウトで始まった新学期第1日目

提供: 19721108
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【概要】

正門前で革マルと当局がにらみ合い、危険な状態を予想したとして当局は正午、本部と文学部をロックアウトした。この日の午前中には2つの告示によって凶器の持ち込み、他大学生の立ち入りを厳しく規制する当局の姿勢が示された。


【新学期早々のロックアウト】

この日の模様を毎日新聞は夕刊で次のように伝えた。
「早大を拠点とする革マル派は15日に神奈川大学のリンチで殺された同志の追悼集会を計画。大学側が集会を禁止、警視庁から機動隊が出て学生の出入りを検問、正門前で革マル派とのにらみ合いが続いたが正午すぎ、大学側は授業を中止、学生の立入りを禁止した。」
早稲田キャンパス183号には次のようにある。
「当日大学当局は、本部において正門、西門以外の各門を閉鎖し機動隊が正門付近などに出動していた。この時点で当局は登校する学生に『異常事態発生の時は必要な措置をとる』という内容の告示を行ない、同内容の文書を配布した。この告示では具体的に如何なる状態でどんな措置を取るかは述べられていなかった。しかし、それから間もなく第二の告示が出され、そこにおいて当日に限り『集会と立看板の搬入禁止』が述べられた。
11時過ぎ頃より革マル派学生が本部前で約100名を集め、神奈川大学で同派学生2名が殺害された事件に関する集会と情宣を開始した。これに対して大学当局は、集会の中止を学内放送で勧告し、革マル派が応じなかったため、12時頃、本部と文学部を学生の立入り禁止~ロックアウト処置を行なった。」
早稲田キャンパスは、このロックアウトについて大学当局が明確な理由を述べていない点にふれ「マスコミ等による内ゲバ非難に対し学内管理強化によって社会的体裁を整えるためだけの恣意的措置」としている。さらに「『集会、言論の自由』さえも認められない17日の事態が恒常化される危険性さえある」とし、学生が管理の対象物としてしか扱われていないと指摘した。
このロックアウトについて押村襄常任理事は「大学としてはあくまで授業をしたいというのが基本姿勢。集会の自由が必要なこともわかる。だが、いまの情勢では人命尊重から仕方なかった。今後もロックアウトすることはありうる」と語ったと翌日の毎日新聞は報じている。同じ記事の中で「ロックアウトされた構内では、革マル派が神奈川大のリンチで死んだ二学生の追悼集会を強行したが、午後1時過ぎに引き揚げた」とあり、ロックアウトの実態がうかがい知れる。

【第一の告示】

「(前略)新聞等の報道によればすでに本月9日・11日には本学外においてではあるが、学生セクト間の乱闘が繰り返され、多数の負傷者も出している。大学は、後期授業の開始にあたって、本学構内においてふたたびこのような忌まわしい事件が起こらないよう全力をつくす決意である。
ついては、大学は従来にもまして、凶器類の持込み、他大学生の不法な立入を厳重に規制するが、今後さらに、情況によっては、各出入門の一時閉鎖を行ない、学生証の提示など必要な措置をとらねばならぬこととなるかも知れず、結果として学生諸君に不便や迷惑が及ぶことが予想される。しかし、これらの措置は、全学の教職員・学生の安全を守り、大学の存立を全うするためのやむを得ないものである。学生諸君はこのことを了解して、これらの措置をとらねばならぬ事態に立ち至った際には、冷静・慎重に行動するように望むものである。
昭和48年9月17日      早稲田大学」

【第二の告示】

「ここ数日来の学外におけるセクト間の抗争に伴う暴力事件の経緯から見て危険な状態が予想されるので、本日はこれに関連する立看板および構内での集会を禁止する。
昭和48年9月17日         早稲田大学」

【文学部の告示】

ビラ等の資料がないため、この日の文学部の状況は不明である。前日の革マルによる三越屋上襲撃時に文学部のメンバーがいたか否かもわかっていない。ただし、襲撃後に現場に数人行ったことはわかっている。
そうした中で、この日出された文学部当局による告示は残っている唯一の資料である。
しかし、「昨年11月8日の不幸な出来事以来、われわれの辿ってきた道はまことに多くの苦しみと困難にみちたものでありました」で始まり「あの不幸な事件以来やがて1年を経過しようとするいま、われわれは日々の不断の営みのなかに貴重な教訓を生かし、真にあるべき姿としての大学の実現にともに努めようではありませんか」で終わる告示には、“暴力的事態”抑止に腐心する当局の姿勢が繰り返し述べられている。
「学生自治の問題をめぐって再三にわたり、学内において学生相互間に暴力的な事態が生じ、そのために、重傷者を含む多数の負傷者が出たことはきわめて遺憾なことでありました。」
「学部は諸君が日々の困難な模索のなかから本当に諸君のものであるといい得るような学生自治を築き上げてゆくことを期待しています。それゆえ、おのれの偏狭な党派的立場のために、主義主張を異にする者に対して暴力的な威圧を加え、これに屈服を強いるがごとき行為は、断じて認めがたいものであります。」
こうした事態に対し、当局が明確にしておきたい2点としてあげたのが「でき得るかぎり教育・研究の可能な条件の維持をはかること」「学内における暴力行為を排除するためにあらゆる努力を傾けること」であった。
どんな言い回しを使おうとも、「大学は授業の遂行を第一にとらえ、それが阻止されるような事態に対しては強硬な手段の行使をいとわない」あるいは「大学のスケジュールに支障をきたす行為に対しては、ロックアウト、あるいは国家権力の介入をもって対処する」といった姿勢が見え隠れするとは言い過ぎになるだろうか。

【革マルの方針】

「17日朝、東京都台東区の国鉄鶯谷駅で、集会に行く途中の中核派の学生約150人に革マル派の学生約50人が襲いかかり、通勤のラッシュアワーが始まったホームは大混乱となった。(中略)警視庁の調べによると、この騒ぎの前の同7時ごろ、北区の飛鳥山公園で鉄パイプを持った学生ら約50人が集まり、国電王子駅から鶯谷方向へ向かったのを通行人が目撃していることから、革マル派がこの日から新学期が始まる早大キャンパスの主導権を確保するため、中核派を追尾、同派の拠点校である法大に集結する前に先制攻撃をかけたものとみている。」(1973年9月17日付毎日新聞夕刊)
この日の午後、革マル派は記者会見を開いた。
「革マル派全学連の前川健委員長は、17日夕、横浜市神奈川区白楽で記者会見、同日朝の東京台東区鶯谷で起きた同派と中核派の内ゲバについて『早大奪還をねらっていた中核派を粉砕するため行った』と説明。16日の東京中央区日本橋の三越デパート本店での事件など、最近ひん発している内ゲバに関連し『四分五裂になっている現在の学生運動を統一するためには、他党派を徹底的につぶしていかなければならない』と今後も他セクトとの内ゲバを続けていく方針を明らかにした。」(1973年9月18日付毎日新聞)


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