1973年9月16日(日)日本橋三越本店屋上で革マルに襲撃される

提供: 19721108
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【概要】

新学期を前に、日本橋三越屋上に集まっていたメンバーに革マル約30人が襲いかかり、怪我人、逮捕者が出た。現場には中核のヘルメットが残され、中核シンパを名乗る証人もいたが詳細は不明。


【三越本店屋上で】

17日月曜日の朝刊には「デパート屋上で内ゲバ 家族連れ、びっくり」「鉄パイプの三十数人 過激派同士か」(朝日新聞)「日曜のデパート屋上へ無法者 鉄パイプ乱闘」「子供抱き逃げる親」「日本橋『三越』お客五百人総立ち」(毎日新聞)の記事が各社10段抜きで報じられた。
朝日新聞によれば事件の概要は次のようだった。
「東京・日本橋のデパート屋上で鉄パイプやスネ当てなどで“武装”した若者約30人が、別に集まっていた学生グループに襲いかかる事件が起き、買い物客たちをぎくりとさせた。一人が1週間のケガをし、8人は暴力行為、凶器準備集合罪の現行犯で中央署に逮捕された。ほかに『被害者だ』という4人にも事情を聞いているが、そのうち一人は『早大生で、中核派のシンパだ』といっている。同署は17日に新学期を迎える早大のセクト間の争いに関係があり、WAC(早稲田全学行動委の略称。革マル派に対抗する早大内の組織)が同デパート屋上に集まるのを知った革マル系学生が、襲ったのではないかと見ている。」
この時警察の網にかかったのは次の面々。
1)「屋上からエレベーターに乗ろうとしていた男3人」で「一人が服の下に鉄パイプを隠し持っていたため」3人とも暴力行為で逮捕された。(3人)
2)近くの日本橋派出所付近では「通りかかった数人の若い男が」職質を受けて逃げ出し、そのうち1人が「新聞紙やタオルにくるんだ鉄パイプ10本をつめたバッグを落とし」逮捕された。(1人)
3)三越内の6、7階でも「腕やスネに段ボールやプラスチックで作ったコテやスネ当てをつけていた若い男を見つけ」逮捕した。(4人)
4)被害者として任意同行された早大生(4人)の一人は「WACから、3時に三越屋上に集まるように指示されて来た。革マル派と対立している中核派を心情的に支持している」と言った。
5)両足を殴られ1週間のけがをした若い男。医師の手当てを受ける際に文京区在住の「自動車運転手助手・山田某」と名乗り「見ず知らずの男たちにいきなりなぐりつけられた。理由はまったくわからない」と語った。しかし、警察が調べたところ居住が確認できなかった。
この襲撃事件が革マル派によって実行されたことは、この日の午後横須賀で開かれた革マル派の集会で「WACを三越で粉砕した」などの報告があったことから判明した。

【証言】

「前日15日の神大での革マルと反帝学評の内ゲバを受けて、明日以降の早稲田での展開をどうするか、緊急に相談したいと早朝連絡があった。誰からだったかは覚えていない。可能な限りの教育のメンバーに連絡した。屋上について間もなく、バラバラでいるところを襲われた。社学のK君と一緒にパクられた。勾留は21日間。」(教育1年)
「神大の件で今後どうするかということで連絡をもらい、サ連の人間として行った。屋上に着いたら、反帝学評の幹部が2人来ていた。」(サ連)
「法学部の連絡窓口だったが、連絡が来なかったので誰も行っていない。」(法行動委)
神大襲撃事件:空母ミッドウェー横須賀母港化反対集会に備えて神奈川大学3号館と宮面寮に宿泊していた反帝学評100人に対して、9月15日未明、革マル派100名が神大3号館を襲撃した。激しい乱闘の末、反帝学評の負傷者21人は市内11の病院に運ばれ4人が入院した。同日10時30分、横浜市水道局西谷浄水場裏門近くの草むらで血みどろの他殺体が見つかった。殺されたのは革マル派偵察要員2名で、東大教養学部生の金築寛(23)と元ICU生の清水徹志(24)で、死因は2人とも外傷性ショック死だった。

【考察】

●集まった目的
この三越の一件については、新聞以外の資料は残っていない。40数年経って得られた証言によれば、翌17日から新学期が始まることから、前日の神大襲撃事件を受けての対策会議であったと思われる。なぜ繁華街にあるデパートの屋上に集まったかについては、「この事件の前にも、デパートの屋上に少ない人数で集まって会議のようなことをしたのは事実です。交通の便が良いので集合しやすかったこと、まさかこんなところまで革マルの目は届いていないだろうという気持ちがあったからだと思います」という証言(一文2年)がある。しかし、革マルの目は届いていたのである。
「襲撃の直後に駆けつけたところ、私服刑事に捕捉され事情聴取を受けた」という一文クラス活動家の証言から、また、事情を聞かれた“被害者”(編注:革マルの偽装と思われる)の発言に「WACから3時に三越屋上に集まるように指示されて来た」とあることから、予定されていた全学の集会であったことはわかるが、早朝の連絡だったにもかかわらず、集合直後に革マルの襲撃を受けたということは、かなり早い時点で革マルに情報が漏れていたと思われる。どこから漏れたのか。この召集の背景に反帝学評が深く関わっていることは、屋上に幹部が目撃されていること、そして何より電話連絡が早朝だったことなどの論証がある。そうしたことから、反帝学評あるいは行動委、WACのメンバーを張っていた革マルのレポに動きを察知されたとは考えられないだろうか。
●集まった顔ぶれ
証言にもあるように、教育学部の他、法学部を除く一文、社学、政経のメンバーが現場にいたが、教育学部でも執行部のメンバーは参加しておらず、各学部も同様である。対革マルの防衛に直接関わる行動委もしくはサ連の連絡網で召集されたのではないかと思われる。
●心情的中核派とは
ところで、 “被害者”の発言を毎日新聞は「午後3時に三越屋上に心情的中核派約20人が集まる予定だった。だがまだ集まらないうちにやられた」と報じている。朝日新聞にも「革マル派と対立している中核派を心情的に支持している」という“被害者”の文言がある。さらに中核派との関係をうかがわせる物証として、「現場の屋上には『中核』と書いた白いヘルメット10個と黒いヘルメット10個、聖書や参考書が入ったカバン数点が散らばっていた」と朝日新聞にある。この時期に早稲田の「心情的中核派」が、単独であるいはWACの一員として集会に出るだろうか。またそれを警察による聴取の際に話すだろうか。にわかには信じがたい。
折しも各党派間の抗争が激化しており内ゲバが頻発していた。特に革マルと中核は苛烈なゲバルトを展開していた。「中核派」と自称する参加者がいる集会を襲うことは、革マル派にとってその手段がいかに卑劣であろうと正当な闘いになる。そうした既成事実を捏造するために、“被害者”として警察に事情聴取を受け、「中核派」の一言を残したと考えられないだろうか。
40数年後、当時の早稲田中核派のキャップが次のように証言している。
「72年に僕が3年生になった時点で多くの学生が卒業して、早稲田支部としては動員がかなり厳しい状態になっていました。集会があれば10人とか15人とかは集まるけれども、日常的な会議や活動が難しい。新たに1、2年生の中から人数を集めていこうとしていました。党派の活動としては、今週は早稲田から何人というような形での前進社の防衛もあるわけです。強制ではないのですが。」
●“山田某”は誰か
“被害者”4人と同様に事情聴取を受けた“山田某”については、教育学部新執行部選に立候補した人物ではないかと思われる。ケガをした彼は、医師による手当ての際に“山田某”と偽名を名乗ったのである。当時、運動に関わる者が警察に顔を覚えられること、あるいは名前を知られることは最も避けなければならなかった。逮捕された時には完黙(編注:完全黙秘の略)が常識であったが、この場合は事情聴取であり、治療上どうしても氏名が必要だったとも考えられる。
翌17日の毎日新聞夕刊には「16日の三越デパートの事件は、革マル派に早稲田を追われた反革マル派が混雑にまぎれて人目のつかないデパートに結集、17日以降の早大奪還作戦を練ろうとしたのを、事前に察知した革マルが先制攻撃をかけた」とする警視庁の見解が掲載された。

【革マルと他党派間の抗争激化】

1973年は一気に革マルをめぐる内ゲバが増えた年だった。
7.4 革マル、池袋で中核のアジトを襲撃(第1次中核村襲撃)
9.9 革マル、西武池袋線・保谷駅で中核派数人を襲撃
9.11 革マル、東大駒場で集会中の反帝学評を襲撃
9.15 革マル、神奈川大学に宿泊中の反帝学評を襲撃。偵察要員の革マル派2名が殺害される。
9.17 革マル、鶯谷駅で集会に向かう中核派を襲撃
革マル派全学連の前川健委員長が記者会見で「早大奪還をねらっていた中核派を粉砕するために行った」と発言。四分五裂になっている現在の学生運動を統一するためには、他党派を徹底的につぶしていかなくてはならない」と、他セクトとの内ゲバを続けていく方針を語った。(1973年9月18日付毎日新聞夕刊)
9.27 反帝学評、本部3号館で集会中の革マルを襲撃
早稲田という局所で見れば、革マルが中核を襲撃した7.4の翌日には政経と一文で学生大会が予定されていた。また、反帝学評を襲った9.15は17日からの新学期直前。実際17日には、革マルが神大事件の情宣と追悼集会を強行したため、本部と文学部キャンパスがロックアウトになっている。表立っては党派間抗争であっても、早稲田においては、「自治会再建」運動に象徴された新しい機運への妨害行為に他ならなかった。
9月16日付毎日新聞は「内ゲバ 日常化するリンチ」と題した記事で、内ゲバの増加を次のように報じた。
「昨年11月の早大リンチ殺人事件以来、心配されていた過激各派の内ゲバ殺人が再び現実のものとなった。(中略)最近では各派拠点校に対するなぐり込み、レポ要員や活動家に対するリンチが日常化する一方で、活動家のアパートや下宿への急襲といった個人テロにまでエスカレートしている。ことし各派による内ゲバ件数は都内だけですでに61件(15日現在)。昨年同期にくらべ件数そのものはやや減ったが、重軽傷者数は昨年の2倍以上の287人にのぼっている。(中略)警視庁の調べでは、都内における内ゲバの中心は川口君リンチ殺人事件が発生、革マル派の最大拠点校でもある早大で61件の内ゲバのうち26件が同キャンパスで発生、そのほとんどは革マル派と反革マル派(反帝学評、中核、戦旗、叛旗各派など)間で行われたもの。(後略)」

【川口君リンチ殺人事件と内ゲバ】

1973年9月18日付毎日新聞の記事の中に次のような記述がある。
「早大では昨年11月8日、同大生、川口大三郎君(当時20歳)が革マル派のリンチ殺人にあって以来、同大を最大の拠点とする革マル派に対して中核、反帝系の各セクトが『右翼改良主義=革マル派との対決は階級闘争の前進に不可欠』と叫び、革マル派の追い出しと”早大解放“を闘争課題にしている。」
また、立花隆はその著書『中核VS革マル』の中で次のように書いている。
「内ゲバ史の上で、川口君事件のもつ意味はきわめて大きい。この事件とそれによってもたらされた“早大戦争”の過程で、内ゲバはそれまでとは比較にならぬほどのエスカレーションをとげた。そして、これまでは主として中核派対革マル派の内ゲバが主であったのに、革マル派は他のすべての党派を敵にまわすことになった。
革マル派は、この事件によって最大の危機にたたされた。第一に、辻・正田君事件以来、通算して4人目の死者を革マル派のテロ路線によって出してしまったことによって、革マル派=テロリストの図式ができてしまいそうになったことである。第二に、この事件が、革マル派の本拠地の早大で起きたことである。対応の仕方をまちがえば、革マル派は学生戦線での“本丸”を一挙に失うことになるかもしれなかった。
革マル派は本丸を確保するために、全国動員をかけ、政治的・軍事的に最大限の努力を払った。そして、壮絶な内ゲバ戦に勝ち抜いたのである。中核派をはじめとする他党派は、政治的には絶対有利の立場にあったにもかかわらず、軍事的に敗北し、それを通じて政治的にも敗北していった。
その結果、敗北した側では軍事偏重の総括が行なわれ、勝利した革マル派にみならって、内ゲバ専門の軍事組織を本格的に作ることになる。こうして、殺し合い内ゲバへの道が開かれるのである。
たしかに、川口君事件以前の段階で、すでに殺し合い内ゲバへのレールは敷かれ終っていたことは、これまでの記述でおわかりだろうが、実際の引き金をひいたのは、川口君事件である。」
党派闘争という観点に立ったこの本では、11.8以降の早稲田の状況はたった4行にしかならない。しかし、事はそれほど単純だったのだろうか。革マルの軍事的な力によって「自治会再建」等の(政治的な)動きは封じ込められたのか。大隈銅像前を埋め一文キャンパスへ向かった数千人の隊列。そこにいた全ての人を党派色で色分けできないことを私たちは知っている。
確かに対立セクトを排除しようとする姿勢は内ゲバの発想そのものだ。しかし、一時期中核派に関心を持った川口君が“中核派”というレッテルを貼られ、“スパイ”という汚名を着せられて殺されたことと党派間の内ゲバとは明らかに範疇が違う。

【革マルの学内暴力】

68年から72年の革マルによる早大民青に対する暴力事件の概要が「一文自治会民主化クラス・サークル協議会」によってまとめられている。
一文では29件が記録されており、いずれにも脅迫、暴行の様子が生々しい。
「3時間目、104教室で漢文の授業を受けていたC C協K君(2Iクラス)に革マル派M、S、M、Oらが暴力的に自己批判を迫る。クラスの学友が止めに入ると、『お前は民青か、登校できないようにしてやる』と脅迫し、K君の顔面を数十発なぐる。この時、授業をしていたS助教授はこの暴力に対して何らやめさせようとせず、『外に出ていってやれ』と言った。革マル派の殴打にK君は発熱し、気分が悪くなり、授業終了後クラスの学友に守られ一文を出る。」(70年2月6日)
「10時すぎ、M、T教授とT教務副主任と共に7名の学生が教室に入った。そこへ革マルが続々とつめかけ、20人ぐらいで(K君、O君は)教室の前と後ろに追いつめられて暴行をうけた。何かをいうたびになぐられ、教師がとめてもやまず、二人は教室の後ろで20人ぐらいにとりかこまれ、また、前へひきずりだされてとりかこまれ、1時間半近く暴行をうけ自己批判書を要求された。」(71年10月1日)
二文では「早大二文から暴力と登校できない人をなくす会」が記録を残している。72年3月調べの時点で、暴力によって登校できず、授業料が払えず抹籍退学となった学生3人、登校できない学生26人、暴行を受けた被害者で氏名のわかっている学生19人。68年以降の個人に対する暴行、テロ、リンチ、脅迫強奪事件は約70件、被害者は90余名となっている。また、55件については経緯が記されている。
「S君が自治会室裏に連行され、なぐる、けるの暴行をうけ、肋骨を折り病院へ行く。」(71年6月)
「H君が自治会室に連れこまれ、裸にされて、チェーンで殴られる。全身打撲。」(71年6月26日)
(出典資料:『早稲田の自治と民主主義 革マル……その暴虐の歴史』全学連中央機関紙「祖国と学問のために」早大総分局他編)


【リンク】 『早稲田の自治と民主主義 革マル……その暴虐の歴史』全学連中央機関紙「祖国と学問のために」早大総分局他編(川口大三郎君追悼資料室より転載)