1973年7月13日(金)当局の試験強行に対し二連協が試験粉砕中庭集会。革マルの襲撃でちりぢりに。

提供: 19721108
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【概要】

11日から強行実施された試験に対し、二連協が試験粉砕中庭集会を提起。試験の強行を阻止する狙いで中庭に登場したが、予定されていたWACの支援が受けられず革マルの襲撃でちりぢりに。援護の叛旗数名が重傷を負う。試みられた有志によるゲリラ攻撃は効果を発揮できなかった。また、試験を巡って教師と討論するクラスも散見した。

【二連協が提起した試験粉砕中庭集会】

11日から試験を強行した当局に対し、12日には、教室で発煙筒をたく爆竹を鳴らすなどの粉砕行動が試みられたが散発に終わった。こうした状況に二連協は、13日に集会開催を提起した。「試験粉砕中庭集会」と銘打ち、100名程の集会を開くことで試験を実力で中止へ追い込み、状況によっては学部団交に持ち込んで試験の白紙撤回を求めるという戦術であった。前日にはWACとの戦術会議も開かれ、WACが本部で革マルを制圧した後、二連協が文学部に登場し集会を貫徹するという行動方針が確認された。しかし、この日集合場所に結集したのは二連協を中心とする30名足らずだった。そのため単なる集会にするか試験実力粉砕もしくは団交かで議論が交わされ、その間に革マルの妨害でWACが予定の行動を中止するなど、情勢は厳しさを増した。とはいえ、クラスの活動家がWACの支援なしに文学部に登場して集会を開く機会は捨てがたく、前日の会議で武装支援を申し出た叛旗の部隊に守られて中庭集会開催の運びとなった。集会では、参加した教務主任(学生担当)の岩波教授を前に団交が提起され、試験粉砕の実力行動にも移ったが、約1時間後、革マルの襲撃によってちりぢりになった。
なお、翌14日には東大三鷹寮で今後の試験粉砕闘争と教育学部の三役選挙を議題に全体会議が開かれた。
『一文有志の記録』には時系列がメモで残っている。
10:00 AVACO Z30 ボストン 11地下 
11:30 (30~40)Z150 11号館情報 二連協内意見分裂
1:30 登場(予定)→叛→文へ
2:00 登場(40~60)集会50 周囲50 etc.50 150~200
3:00前 岩波出てくる
3:15 Z西門から出る情報
3:30 図書館裏 ×× 正門→三方向から100人 正門囮部隊→叛
    全員 継パイ、メット 50~100→80(100)
4:00 脱出
翌14日には、当局が「対立する学生諸君は鉄パイプを捨てて、討論の場に戻ることを切望する」として告示を出した。そこには経緯が次のように記載されている。
「7月13日(金)午後2時すぎ、新執行部の学生を中心とする数十名が突然文学部中庭に現われ、スロープ上と階段下にバリケードを築いた。また、この直後赤ヘルメットをかぶった約30名の集団が入構、鉄パイプ等で武装して102教室に入った。執行部系の諸君は一文学生担当教務主任を連れ出して集会を開いた。3時30分ごろ、大部分他大学のものと思われる白ヘルメットの革マル系の学生が記念会堂前で武装し、赤ヘルメットの集団と乱闘となった。ついで革マル系の集団は、中庭で集会中の新執行部系の学生をはじめとする多くの学生に鉄パイプ等で襲いかかり、さらに期末試験中の教室に乱入して暴威をふるった。その結果、重傷者を含む8名の負傷者を出すに至った。」

【学外授業、学外試験の提起】

クラスに基盤を持ち、クラス討論を維持していく主体となったクラス連絡会議(クラ連)にとって、試験に対する意思一致を図ることは、難しいながらも避けては通れない課題であった。
『一文有志の記録』には、73年度前期試験に関して次のように記されている。
「72年度学年末試験が我々の態勢が十分にとりえないまま敗北していったことに規定された形で、5.17以降の低迷状態も存在した。また、それによって直接的には80数名もの学友が文学部に立ち入れないという状況にさえ立ち至った。このまま試験をなしくずし的に受けることは、9月期以降の展望を全く立たなくさせるものとしてあった。そこでTクラスでは、より直接的な要因(80人もの学友が学内に入れないという状況)を二次的に解決し、分断された状況をすこしでもくい止め、そしてより本質的な解決を志向していくものとして、『学外試験』を方針として打ち出した。しかし、それは最初から『学外授業』~『学外試験』というサイクルで容易に完結する可能性が非常に高いものであり、極めて中間主義的な色彩の濃いものであった。」
授業で顔を合わせる教師に対してこの案を提案したものの、理解を示す発言を得ることはできなかった。
教師I:制度こそ自分の主体であるから、大学内では機構の指示通りに行動する。
教師M:授業を学内で行うことは正常化への第一歩である。
教師K:私の教育理論は国家の要請に見合う人間をつくりあげることです。語学は専修へ上がるための準備としてやります。戦前の悲惨な歴史を振り返り反省して、民主主義を徹底させるための教育です。
いずれの意見も、大学という枠組みの中で、一定の仕組みに従うことが自らの行動規範であるという立場で発せられている。しかし、その仕組みの中で川口君リンチ虐殺事件が発生したことにはふれていない。それは特殊な状況下でのことであり党派間の問題であるというレッテルを貼ることで事件そのものを排除しようとする意識が教師の属する当局を支配していた。
新2Jからは、教師との問答を伝えた個人ビラが出ている。
O先生:一律評価は困りますね。お気持ちはよくわかりますけど、とにかく困ります。なにしろ不可がないと、増長してサボる学生が増えますしね。とにかく授業をしましょう。皆さんが問題になさっていることと授業とは別ですよ。授業が終わったら一緒に考えましょうね。試験ができないのは困りましたね。ではこうしましょう。夏休み中何でもいいから英語の本を一冊読み、あらすじと感想を一行おきにレポート5枚。後期、第一時間目の授業に提出。皆さん、今度はちゃんとお勉強してくださいよ。
T先生:(逆上して)またクラス討論ですか!いったい何時間私の授業をつぶせば気が済むんです!試験反対?何を言うんですか。決められたとおりきちんと授業をして試験をするのが私のモットーです。では、試験をします。
M先生:To examine and value is right of the teaching staff, and I think it is my duty. Do you boycott my examination really? I see. You will fail it.
別の個人ビラでは、「評価をするのは教師の義務ですから」という発言に対し、「その、今まで当然だった前提がおかしいのではないかと思って先生と話し合っているのですが」というやりとりが記されている。そして、こうした学生の反論に対して、ほとんどの教師が「授業をして評価をつけ単位を取っていく、これが大学というものでしょう。その前提を認めないなら、あなたは大学を辞めるべきですよ」と声高に言ったとある。「試験を経て大学までたどり着いた経験をもってしても、これほどまでに試験に固執する教師の姿は、何か不思議なもの、異様なものとしてうつる」とし、「まるで突き破れない厚い壁に囲まれているようだった」と記されている。ビラの最後には「いま、非常にしんどいけれど、自分自身にとって学生とは何かという問い返しもしてみようと思っている」と結ばれている。そして考えた末、大学を去る道を選んだのである。
当局を糾弾し、試験粉砕を呼びかけながらも、単位を取得しなければ進級はできない。とくに文学部の場合、一般教養から専攻へ上がるための必要単位が取得できていなければ留年となり、その期限は2年。進級できたとしても成績が悪ければ、競争率の高い専攻にはいけない。心理学や日本史をあきらめ人文、文芸へまわるのである。他学部でも、討論の合間にレポートを書いた話などが伝わっているが、単位取得による進級という枠組みと春夏冬の休み、入学試験などの一連の学校予定に縛られたことが、有形無形に運動の流れを左右した。
その点を指摘した文章が残っている。
「結局、口では授業中止、試験粉砕を言いつつも、結果的にはレポートに甘んじてしまった。教師がレポートに切り替えざるを得なかったのは、確かに私たちの一定の成果ではあった。しかし、それは単なる妥協の一形態であって、本質的なものは何一つ解決されていない。では、本質的なものとは何か?そして『試験粉砕』と口にしつつもレポートに甘んじざるを得なかったのは、どこに問題があったのだろうか?それは、私たちが『学生』というおのれの立脚点を見つめ、その関係性を明らかにすることなく、授業や単位を語ったことが一つあると思う。私たちが『学生』は単位をもらうものであるということを前提として試験や単位のことを語る場合、教師がその既得権であるところの評価権をふりかざすことを、誰がとがめられようか。私たちに欠落していたのは、試験を単に『当局の分断策動』として一方的に攻撃するのみで、今まで分断されてきたその関係を、管理支配されてきた自己を解放する作業もなく、結局、その関係性は乗り越えられなかったのである。」

【L★の登場】

「早稲田を叛乱の炎で蔽いつくし、虚飾の碧雲を深紅に染めよ!」と題されたビラが残っている。5月17日から7月13日にかけての一文の状況を分析しており、小見出しには「党派による軍事力代行とWAC解体」「一文団実委の活動とその限界」「二連協を中心とする運動展開」とあり、現状を否定的にとらえている。13日の経緯をまとめたこのビラの最後に「L★は団交の方針であれば全力でこれを支援する態勢を整え秘かに待機した」という一文がある。このL★(読み=エルボシ)とは何か。LはLiteratureの略。そのまま読めば「一文の星」である。
後に「X団」と名乗るビラも散見するが、これはL★のことである。Xとは便宜上の記号で、正式の名称はなかった。漫画に出てくる「怪人X」と同じく名称不詳の謎の存在という意味合いだったと思われる。
X団を構成したのは旧1年生と旧2年生の8クラスの有志と執行委員1名の20名ほどだった。合議制をとる連絡協議会の即時性の弱さ、党派の競り合いの場となった行動委員会の限界を越え、自衛武装を肯定的にとらえて現状を打破しようとする有志の集まりだった。全員が鉄パイプを握ることを肯定(決意)していた訳ではなく、サポートに徹しようとした者も含まれていたし、途中で活動を中止した者もいた。
X団初の対外活動がこの日13日だった。二連協の集会を潰しに来る革マルの襲撃に備え、鉄パイプを握って体育局に潜んでいた。結局革マルの優勢に出番はなく、退却せざるを得なかった。また、X団とは別のグループが、袋に入れた自らの糞尿を革マルに投げつける作戦を実行した。これは、成田紛争で使われていた糞爆弾になぞらえたものだった。

【L★=X団の動き】

この日X団はレポ5人、レポセン2人、行動隊10人の組織で臨んだ。予定では午前8時に高田馬場のYMCAに集合のはずだったが、メンバーが実際に集まったのは10時過ぎだった。運動の中で時間を守らないことが問題となっており、ここでも遅刻が常態化していたことがうかがわれる。帝国主義をもじって「定刻主義」という表現が使われていた程である。
レポについてはすでに8時前から文学部キャンパス内外と学館、本部に配置されており、逐次レポセンへ報告が入った。
8:17 高田馬場駅前にZのレポ
8:21 文学部にZ、機動隊ともにいない
8:44 本部平静、東西南北の門すべて開放
9:21 学館に誰もいない様子
9:25 9時前、11号館に三々五々荷物を持った人間
9:40 文学部キャンパス変化なし
10:26 学内平穏
10:32 YMCAに7人集合
10:47 場所を移動AVACOへ
この時AVACOには二連協が集合していた。YMCAからAVACOへ移動したX団のメンバーは合流して待機する。
11:20 AVACOから行った叛旗20数人が文学部で内バリ
11:36 11号館にZ 150人
11:45 本部正門のみ(10時に南門、11時30分に西門閉まる)
この間文学部キャンパスに顔を隠し武装した革マルが入ったものの表面上は平穏だった。
1:10 AVACOに樋田委員長?が来て混乱
2:02 文学部キャンパスへ入る(40~50人+叛旗)
2:21 樋田委員長入る(部隊50+聴衆50)
2:35 試験が終了し聴衆増える
3:20 教務主任の岩波教授を囲んで団交
レポによれば、集会の聴衆は着席50~60人、立ち見50~80人。叛旗他の部隊は見えなかった。また、スロープ脇の階段は塞がれ、スロープは2人が通れるほどに狭められており、革マルの動きは不明だった。
3:32 革マル100人正門前。スロープ下で叛旗迎撃
3:35 研究棟の下でゲバルト
3:37 スロープ上に革マル100人以上。救対動員
3:45 X団の10人無事。叛旗壊滅
この後メンバーは午後7時から喫茶店で顔を合わせ、この日の状況について情報を交換した。さらに今後の活動のために、怪我をした場合の病院付き添い、逮捕された時のガサ隊、レポセン等の役割分担を確認した。
後日、この日のレポについての総括がまとめられたが、そこでは人員不足を取り上げ、少人数なりの体制がとれなかったのは、X団としての方針や運動の展開が不明確だったことによるとした。

【X団の夏休み合宿】

7月29日~31日、X団は河口湖の民宿で合宿した。参加者は20人。レジュメには、この合宿の目的が「X団の原則がいったいどこにあり、獲得目標が何であるかを今一度問う」ことにあると記されている。
討論のテーマとしては9月以降の展開を「戦争」と定義して、1)闘争スケジュール2)組織3)会計部樹立4)オルグ5)戦略戦術6)拠点展開について他、具体的には1)出撃点の確保2)諸戦線との接触3)情宣4)学内の組織化などの課題が取り上げられた。その他、情報収集と分析にあたる情報・資料班の設立、団員がいつでも利用できる印刷所の設立なども提案された。
レジュメには「唯一の一致点であるところの“自らの思想性を自らの武装によって確保する”」という記述があるところからX団の戦闘的な性格がうかがえる。

【証言】

X団は7月29日から31日にかけて、河口湖の民宿で合宿を行いました。この合宿では理論の構築、意見の集約を行いましたが、そんなことはどうでもよかったのです。基本は、どうやってカクマルの圧倒的な暴力に対抗するかということでした。
東京に戻ってからは、7.13の反省からゲバルト訓練を行いました。ただ決意しただけでゲバルトに勝てるはずはありません。同じように無党派の明治大学新聞会(MUP)――彼らは戦旗派と敵対関係にあり、戦旗派を学外に追放しました――の指導で、三多摩地区にあった体育館で武闘訓練を受けました。実戦に備えての鉄パイプを使った「杖術」の訓練では、まずは相手の鎖骨を狙って上から斜めに振り下ろすことを学びました。敵に打撃を与え、怪我で動けなくさせても、死には至らせないということです。『信濃忍拳』による空手およびヌンチャク――ブルース・リーが人気の時代でもありましたね――の指導もありました。ヌンチャクは、紐で繋いだ二本の棒の片方を利き手で握り、他の一本を利き手側の脇下で固めるのが基本姿勢となるのですが、この姿勢を習得するまでには腕や体側がアザで紫色になってしまいました。裸足で行う空手の稽古では痛いように冷たいリノリウムの床の感触を覚えていますので、「図書館闘争」が終わった73年冬から74年春にかけても武闘訓練を続けていたのだと思います。ただ、いつ頃この訓練を止めたかは記憶にありません。(一文2年)


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