1973年6月13日(水)豊島公会堂で「負けるな早稲田大集会」開催。外濠公園まで学外デモ。

提供: 19721108
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【概要】

各学部執行部、臨執、サ連、救対が共同主催する「負けるな早稲田大集会」に650人が参集。会場では11.13徹夜集会、川口君学生葬の録音テープが流された他、各学部執行部からの決意表明、他大学からの連帯アピール等を受け、意志一致を新たにした。終了後、隊列を組み本部へ向かったが、機動隊に阻止され、外濠公園で解散となった。

【この日のできごと】

◎「負けるな早稲田」大集会、豊島公会堂にて650名(一文から200名)参加。
政経、一文、二文、教育、商の各学部執行委員会・臨執、C連、ワセダ統一救対の主催。
放送研究会によるドキュメンタリー・テープ(11.13-14徹夜集会、11.17学生葬)が流される。
初めての学外デモ。豊島公会堂→明治通り→早稲田通り→馬場下交差点→外濠公園


【負けるな早稲田大集会】

現在残っているビラには、主催者として政経学部、教育学部、商学部、一文、二文の各自治会執行委員会の他、11.8サークル連絡会議、早稲田統一救対が名を連ねている。会場は池袋東口の豊島公会堂、スタートは1時半。
議事進行の概略は、各自治会アピール、第二次早稲田闘争の短編映画、13、14集会テープ~闘いの記録(映画)~、全都各大学自治会からの支援・連帯アピール、講演(未定)、各支援団体からのアピール・自由発言、4時終了~この後、会場に集まった全ての学友と共に早稲田大学に向けてデモ。各クラスで再びプラカードを。本部前集会。
『一文有志の記録』には「内容はともかく、人数的にあの状況下(Zのため学内情宣がほとんどできない)で集めきったことは、一つの足がかりとなる」と記されている。クラス討論を踏まえていない点は早慶戦へ行くのと同じで、集会そのものの設定も曖昧で、情宣も不足だった。ただし、多くの人数が集まり、集会後2時間以上もデモを敢行できたことの意義は高いと評価している。
集会の模様を詳しく残しているのは早稲田キャンパス新聞179号で、サブタイトルに「自衛武装問題、路線分岐鮮明に」とあり、リードにも「集会での発言内容は、自衛武装の必要性を、行動委のみならず自治会執行部が強調したこと、民青系との路線分岐が鮮明になったことが注目される」とある。
集会の進行を抜粋すると以下の通りである。
14時:実行委による開会宣言
◆二文臨執による基調報告「否定的な状況を大衆的闘いで突破していこう」
◆一文樋田委員長「方針を巡って意思統一できないが、この集会を突破口にしよう。全国の戦線との共闘も必要。学内での活動のため、革マルとの衝突もやむをえない」
◆二文臨執「川口君の死は闘いの原点である。早大解放のためには、諸セクトとの共闘、自衛武装はひつようである」
◆政経自治会執行委(個人)
◆旧2J「川口君虐殺はあらゆる闘争への敵対である」
◆一文三年生連絡会議(準)「全員進級をかちとる。筑波法に反対し自主講座を計画する」
◆慶應大学全学ストライキ実行委員会 連帯アピール
◆11.8サークル連絡会議「早稲田祭への結集を」
◆教育学部執行委員会「学内での活動を追求する。自衛武装は不可欠であり、革マルとの武装対決は不可避である」
◆全学行動委(準)「闘いの現実と今後の展望」
◆法政大学経営学部 連帯のアピール
◆シュプレヒコール
◆5.8総長団交時の主力メンバーによる決意表明
◆大学本部へ向けて街頭デモ
記事では、注目すべき点として「この集会で二文臨時執行部・教育執行部が、初めて公式の場で、学内での活動のために革マル派との対決、そのための自衛武装の必要を訴え、民青の闘争歪曲を糾弾したこと」をあげた。
また、集会後の街頭デモの経緯についても詳しく記載している。
「実行委は、当初公安当局に対し、豊島公会堂から明治通り、早稲田通りを通り大学本部までのコースを申請したが許可がおりず、馬場下から四谷外濠公園までのコースに変更された。このデモには降りしきる雨にもかかわらず300名以上の学生が参加した。隊列の前後には革マル派の妨害にそなえて、竹ザオ・ヘルメットで武装した行動委がつき、その中にノンヘルで傘をさし荷物を持った学生が続いた。途中、馬場下交差点では先頭の部隊が大学本部へ向かおうとしたが、機動隊に阻止され、それに抗議して座り込んだ学生に対し機動隊は殴る蹴るの暴行を加えた。」


【リンク】

負けるな 早稲田大集会