1973年5月27日(日) 一文執行委、団実委の連名で神宮球場、早慶戦でのビラ撒き。

提供: 19721108
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【概要】

学内での情宣活動が革マルの妨害によって停滞するなか、一文執行委は団実委との連名によるビラを、早慶戦の行われている神宮球場で配った。一方、情宣の滞る一文キャンパス内で活動を担ったのは2年生、3年生の連絡協議会のメンバーで、討論の提起など地道な活動を続けていた。


【早慶戦でビラ撒き】

折しも早慶戦が戦われている神宮球場で、一文執行委と団実委の連名によるビラが配られた。革マルの妨害によって学内での情宣活動ができなかったこともあり、お祭り気分とはいえ早慶戦は情宣のチャンスでもあった。ビラは、11.8以来続く当局・革マルとの攻防を記したのち、次のように締めくくられている。「私達は、11月からの闘いがたどり着いた段階をしっかり認識しなければならないと思います。そして、国家権力~機動隊の弾圧を突破し、再び、革マルと大学当局に対する圧倒的な包囲・追撃の闘いを実現しようではありませんか。5月12日の交流集会を契機とした慶應大学の学友との連帯を深め、共に闘い抜こう!明日から連日の反撃を開始しよう!すべてのクラス・専修で教授に対する追及を実現し、再度団交をうちぬこう!創意工夫をこらして自衛し、革マルのテロを粉砕しよう!6月総攻撃へつき進め!」


【2連協会議】

一文キャンパスに執行部のメンバーが入れないため情宣活動は停滞し、キャンパス内の活動の主軸となったのは、2連協と3連協であった。それとて、2連協が10~15人、3連協が15人であった。これに団実委15人と執行委員会10人を加えた50人前後が運動の結集軸であった。全学的にも、WACが一文・教育と法・政経の2派に分裂しており、加えて反帝学評他党派の介入もあいまって、学内の拠点確保はますます難しくなっていた。反帝学評、叛旗などの党派の窓口となったのは、第二次早稲田闘争を闘った世代で、革マル派によって学内から排除されたメンバーであった。11.8以降、学内に戻り運動に参加していたが、革マルの攻勢を前に、所属する党派色が支援という形で前面化してきたものである。党派以外でも、アナ研など、アンチ革マルのメンバーがWACや各学部新執行部の運動を支えた。一文にも二次闘争以降学内に入れなかった留年生が復帰しており、行動委(LAC)や執行委員会のメンバーとして活動していた。しかし、革マルによる攻勢が激しくなってきたこの時期になると結集軸の脆弱さに危機感を募らせ、WACの活動拠点確保のためにも、学大によって危機を打開することを2連協会議で提案した。さらに、運動項目に筑波法案粉砕を掲げることで、全国の諸大学との連帯も盛り込まれた。(資料:『一文有志の記録』)


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