1973年5月16日(水) 全学団実委(準)結成。当局は混乱への懸念を理由に総長団交中止を発表。

提供: 19721108
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【概要】

セクト間抗争の激化、団実委は学生の代表とは認められない等の理由をあげ、当局は17日の全学総長団交の中止を発表した。これによって5.8の村井総長の確約書は反故となった。かつて早大一次闘争時にも大濱総長(54-66)が団交をボイコットしており、時間を経ても、学生に対する当局の姿勢に変化がないことが実証された。


【この日のできごと】

◎全学団交実行委員会(準)結成。
政経執行委、一文執行委、教育執行委、二文臨執、政経団実委(準)、一文団実委、教育団実委、二文団実委、社学団実委(準)、理工団実委(準)、サークル団実委(準)
●15:30 大学当局は学内6カ所掲示版に「学生諸君へ」5.17団交確約破棄を掲示。
◎一文、48年度自治委員総会を告示。

【当局による団交中止の発表】

当局は、全学集会(全学団交)の中止を発表。総長自らが署名した確約が破棄された。
「学生諸君へ
大学は、全学的集会をもつべく、鋭意・検討を重ね、17日を期して努力してきたが、数日来の学内の状況をかえりみるとき、セクト間の抗争がきわめてはげしく、もし今の時点で集会をもつならば、大混乱が起きることは明白であり、状況によっては、人命にもかかわる事態が発生しかねない。
右の状況から、予定していた全学集会は、これを取り止める。
もとより大学は、全学的に多くの学生諸君が出席し、かつ、秩序が保たれ、ルールが守られるなら、集会をもつことにやぶさかでないことを重ねて表明する。
昭和48年5月16日
早稲田大学」
当局は、「全学的集会をもつべく、鋭意・検討を重ね、17日を期して努力してきた」というが、具体的にどのような努力をしたのか。
全学集会の主体は、当局ではなく、手段はともかく総長の確約を取り付けた学生(団実委他)にある。それを「予定していた」と、さも積極的に開こうとしていたのが当局であるかのような書きぶりは、まったくの欺瞞である。さらに、人命に関わるかもしれない事態を傍観していたのは当局であり、あらかじめ暴力~混乱~集会中止の筋書きが、KK(革マル、権力)との間で出来上がっていたことが推測される。
後日、凶器準備集合罪に問われた団実委メンバーの裁判記録では、当時の学内状況および団交中止に至る経緯に関して次のように言及している。
「同年5月8日理学部(原文ママ)の教室で講義中の村井総長を一部の学生らが本校舎8号館301番教室に連行して、いわゆる団体交渉を行い、その結果同総長において来る同月17日再度の団体交渉に応ずる旨の確約書に署名捺印したことは、さきにも述べたとおりであるが、この件について、同月14日、大学当局が『総長が講義中一方的に拉致されたということについては遺憾であるが、学生らが集会をもちたいということを強く希望していることはわかったから、それは実現したいと思っている』という趣旨の告示を行い、あたかも前期確約書の内容を追認したかのごとく思われる見解を表明したというのに、その翌々日の同月16日には、にわかに前記のとおり『セクト間の抗争がはげしく、今の時点で集会をもつと大混乱のおきることが予想される』との理由で、5月17日の集会をとりやめる旨の告示が出されたということについては、その間における当局側の学内情勢の把握による判断の結果であるとは察せられるが、少なくとも外見上はいささか奇異の感を禁じ得ないものがあるといわざるを得ない。」
また、当局の背景を伺わせる記述もある。
「関係学生の代表らは5月10日以降大学当局者側との間に数次の会合をかさねて、右大衆団交を行う場所の決定等細目についての打ち合わせを行ったが、その点についての当局側からの確答が得られないばかりか、かえって『5月17日に団交をやったら学校をつぶしてしまうというようなことを革マル派の学生が言っているから、大混乱が起きるよ。君らもけがをするかもしれないから、いっそ団交を止めるということにしたらどうだろう』などという消極的な意見が当局側から出されるなどして、決着のつかないままに日を過ごしているうちにその集会の予定されていた右5月17日の前日である5月16日になって、突如『セクト間の抗争はげしく、もし今の時点で集会をもつと、大混乱のおきることが予想される。』との理由で5月17日の集会をとりやめる旨の告示が出されたので、これを知った前記準備会の責任者が、大学当局に対して電話で総長が団交で確約したにもかかわらず、そのような告示で一方的にこれを破棄するのは許されない旨の抗議を申し入れたがこれについてはもはや話合いの余地なしとして拒否されてしまった。」


【団交中止の理由】

16日夕刻、押村襄常任理事が記者会見を行い、団交中止の理由として「行動委学生との話し合いにおいて議題や団交の方法について意見が一致しなかった」「15日に開かれた革マル派の全国集会には900人が参加。この人数で団交が実力粉砕されれば大混乱となる」「行動委系の全学団交実行委は、全学生を代表しているとはいえない」との3点を挙げた。


【村井総長の談話】

団交中止の発表を受けて村井総長は次のような談話を発表した。
「授業中の教員を不法に連れ去ることは容認出来ないが、理性による対話を確立しようと努力して来ているので、全学的集会への参加を決意した。現実には力の論理を信じる学生セクトが横行していることは誠に不幸なことだ。話し合いの場をもって反省と前進を求めようとしたが、それが時期を得ず不可能であることを知らされた。」(1973年5月17日付毎日新聞)


【毎日新聞による解説】

1973年5月17日付毎日新聞は8段抜きで「早大の団交中止」を報じた。その中の「解説」は当時の状況を次のように分析している。
「当局による団交の中止は17日の“混乱”を避けたものの、紛争のいっそうの長期化を決定的にし、セクト間の対立をさらに深めた。
8日の総長断交以来、総長を学生の前に引出し団交を確約させた黒ヘルグループの行動委は、反革マル派のなかでの主導権を得たように思えた。しかし各学部反革マル執行部の態度は、政経、一・二文、教育の4学部臨時執行部がこれを支持したが、民青系の法学部自治会は『全学の支持を得ていない』として団交を認めず、同学部と社会科学部の臨時執行部も態度を保留した。
一方、団交実力粉砕を叫ぶ革マル派は15日の『小選挙区制反対』の全国動員で900人が構内に集まって勢力を誇示。これが『団交を開けば大混乱になる』と大学当局に恐怖感を与えた。
“一般学生”の自治会再建への動きはセクト間の争いに反発を感じながらも、大学との接触の場を求める気持が強かっただけに、当局の団交破棄はこうした一般学生の反発を買い、やがては当局への不信感が『なにをやってもダメ』という無関心に変化しそう。結局、総長の“約束”は、混乱に輪をかけただけといえる。(荻野祥三記者)」


【団交中止その後】

それまで大学当局による「管理支配体制」と呼ばれていたものは、大学当局が、革マル派自治会を承認することによって、革マルを通して学生の活動を牽制、抑圧する支配構造であった。ところが、14日の集会実施の告示から15日の集会中止の告示においては、その間わずか一昼夜と、当局の翻意はあまりに唐突であった。前出の裁判記録の中でも、突然の団交中止の告示は「いささか奇異の感を禁じ得ない」と、当該の裁判官が発言している。あくまで推測の域は出ないが、14日から15日にかけて、当局と革マルの間で、それまでの力関係を逆転するような事態が発生したのではないか。諜報活動に長けた革マルによる当局への脅し、あるいは暴力を背景にした恫喝等によって、当局が団交の中止表明に追い込まれた可能性は想像に難くない。また、この年の第20回早稲田祭が革マル主催で行われたこと、さらにそれが1996年の第43回まで続き、90年代には年間2億円が大学当局から革マルへ渡ったと言われるなど、長年にわたり早稲田大学は革マルの資金源となったのである。


【リンク】

5.17裁判記録