1973年2月7日(水)一文の学生大会再び流会。当局は卒業試験実施に踏み切る。

提供: 19721108
移動先: 案内検索

【概要】

一文では、前日に引き続き学生大会を開催したが、定足数を満たすことができずに流会。執行委員会、BACH有志グループいずれの議案書も審議されることなく、第三波ストは成立せず、8日からの卒業予定者の試験は実施されることとなった。政経学部では4年生以上の期末試験をレポート提出にする旨を発表した。

【この日のできごと】

◎一文学生大会再び流会に(650名が参加)。
◎一文団実委、二文新入生歓迎実行委、結成される
●二文団交。学部長は出席せず。当局は団交実施までの試験延期を確約。


【流会に関する執行委員会の発言】

2/13の総括集会へ向けたビラの中で、執行委員会は「種々の点で執行部の方針、やり方に問題があったことを認め、自己批判します」と書いた。2/6学大の翌日、再度学大を提起したことについては「展望が甘く、情宣が徹底的に不足していた。2/8の総決起集会、2/8からの卒試強行を考えて2/7学大を提起したが、2/6学大の失敗をふまえた態勢たて直しの作業をほとんどなし得ないまま、再度学大を提起したこと自体に問題があった」と言及している。
スト採決に沸いた1月23日、30日の学生大会の記憶もまだ新しかったが、「準備不足を痛感」する一方、学生大会に対する姿勢にも「学生大会の位置づけ、必要性が全体に広がっていなかった。また、そういう状況を的確に把握し、必要性を訴える姿勢に執行部は欠けていた」「学大を、興味をそそる面白いものにする必要がある。定足数に達するまで結集した学友が無為にすごすことは、いたずらに消耗感をあおるだけ」等、反省すべき点があったとしている。

【『一文有志の記録』から】

「一文有志の記録」には、年明け以降の学生大会と団交に関する動きが次のように記録されている。
●1.23学生大会~予想以上の人数結集(1600人弱)
        ~試験強行阻止、自治会承認要求。
●1.24~1.30第一波スト~かなりの結集→討論が非効率的――時間の浪費。
全体としてかなり勝利的に克ち取られる。
●1.27自治委員総会~多数のオブザーバー。勝利。
●1.29第2次団交~ゼロ回答。――混乱
●1.30学大~再度の一週間スト。団交から連続的に学大。日時設定のまずさ。
●1.31~2.6第二波スト~結集甚だ悪し。解体現象。
●2.5第3次団交~ゼロ回答。
●2.6・2.7学大~流会。執行委・我々の甘さ。内実のなさ。
◎団交について~大衆性の欠落。(団交技術のまずさ。最初からゼロ回答を予測。)
十人委員会というカイライの存在。――当局のうまさ。→十人委の解体を。
学部段階には限度。→総長団交へ。
◎第二波ストがザルスト化し、第3次団交がなに故に空転せざるをえなかったか?
◎何故に学大が2度流会したのか?

【二文の支援】

流会で審議されなかった執行委員会の行動方針の中に、「現在、集中攻撃を受けている第二文学部を実力で断固支援する」との項目があった。その経緯については、「革マル派は、我々と共に闘う二文学友に対して、現在極めて破廉恥なデマをデッチ上げ(自ら盗んだ自治会員証を様々な形でデマ材料とし、ありもしない事実をもって二文臨執に責任をとれなどという等)て、二文学友や支援部隊に対してなぐる・けるなどの驚くべき暴力的敵対を試みつつ、活動の進展がやや遅れている二文学友を集中攻撃しているのである」とし「二文学友への公然たる暴力的敵対、4月に向けての革マル派の個人テロ、予期される敵対を、断固許すわけにはいかない」とその決意を示した。
こうした革マル派の戦術は、1月下旬から目立つようになった。「一文有志の記録」には次のようにある。「1.19・20を境に革マルの戦術転換。一文に限っては、表面的平和共存長期持久戦体制。体制の弱い所に攻撃集中→突破口。怒りの鎮化(原文ママ)を待つ」。
また、2月15日付の朝日新聞には「1月19日の武力衝突以後、反革マル学生と正面切っての闘争を戦術転換して以来、最も抵抗の弱い二文臨執の活動を妨害する“夜行性”が目立つようになった。」と書かれている。


【第一政治経済学部掲示(2月7日付)】

「4年度生以上の諸君へ
 教授会は、学年末試験について慎重に検討した結果、現状のまま推移していくならば、学生諸君にとってきわめて憂慮すべき事態も起こりかねないことを考慮し、教場試験をとりやめ、レポートによって、成績を評価することと決定した。
このような措置をとらざるをえなくなったことはきわめて遺憾であるが、これも諸君の将来について配慮した結果であることを理解されたい。
 2月7日 第一政治経済学部」

【リンク】

2.7学生大会 議案書 第一文学部執行委員会