1973年11月4日(日) 出身地の伊東市で川口君の一周忌法要

提供: 19721108
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【概要】

実家近くの伊東市新井・宝専寺で川口君の一周忌法要が営まれた。席上母親のサトさんから、寄せられた寄附金でセミナーハウスを建設する計画が発表された。


【一周忌の法要で発表された川口記念館建設】

8日を前に、川口君の実家のある静岡県伊東市で一周忌の法要が営まれた。1973年11月5日付の毎日新聞によれば、その席で川口サトさんは「香典と同級生らが集めた寄付金が4700万円になった。学生が学生運動や学問で疲れた頭をいやし、二度と大三郎のような犠牲者を出さないためのセミナーハウス“川口記念館”を来年9月完成予定で、神奈川県内に建てる計画を進めています」と語った。さらに記事は「サトさんは昨年12月、大三郎君の所属した同大新聞(編注:早稲田学生新聞=原理研)部員、大江益夫君(24)にセミナー建設計画を初めて打ち明けた。今年8月になって、大江君の呼びかけに賛成した同部員25人が全国の主要都市にちらばり、非暴力と川口記念館の建設を街頭でアピール、資金カンパと署名運動を続けた。この結果、全国で48万人の人たちがこの趣旨に賛成、4200万円が集まった」と続き、村井資長総長もこのセミナー建設に土地を提供することを報じるとともに次のような総長コメントを載せた。「サトさんのお気持ちをくんで、私有地を提供することにした。今後、財団法人としての組織づくりが課題だが、私がクリスチャンである以上、キリスト教精神をいかした施設にしたい。完成後は、早大だけでなく幅広い利用を呼びかける。」
村井総長が提供するとしたのは神奈川県中郡大磯町に所有する約1650平方メートルの土地。この時点では翌年1974年2月着工、9月完成予定との計画だった。しかし、紆余曲折を経て静岡県韮山町(現:伊豆の国市)竣工したのは1975年6月であった。その後も、登記に関して原理研と村井総長の間に問題が生じるなど、セミナーハウスはおよそサトさんの願いとは相反する道をたどることになった。

【川口君と早稲田学生新聞】

川口君はジャーナリスト志望だった。入学式後、居並ぶサークルの新入生勧誘の声に足を止めたのは早稲田学生新聞のブースだった。この早稲田学生新聞は原理研の組織で、サークル活動に言寄せて構成員の獲得を図っていた。
71年6月5日付第9号には川口大三郎と署名のある早慶戦の観戦記が掲載されているが、その後は活動していない。
しかし、川口君の死後、早稲田学生新聞のメンバーは川口君の学友と名乗って母親のサトさんを訪れ、巧みに取り入ったのである。


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