1972年12月1日(木)商・法で学生大会。法学部は定足数不足で学生集会に

提供: 19721108
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【概要】

午後、商学部と法学部の学生大会が開かれる。革マルによる執行部体制だった商学部でも学大開催へ2200の署名が集まり、学生大会には1600名の学生が結集。革マル派執行部をリコールし、臨執22名を選出した。法学部では11.24の学生大会が文学部クラ討連支援で中断したため再開の形となった。1500名が結集したにもかかわらず民青執行部がリコールされかかったため、執行部はわずか10名の定足数不足を理由にして学生集会とした。

【この日のできごと】

13:00 商学部学生大会は10号館109教室に1600名余が結集(署名2200名)して開催された。革マル執行部をリコールし、クラス委員会の解散を決議。臨時執行部22名を承認・決議したが、革マルのシンパ4、5名が含まれた模様。商学部当局はこれまで通り革マル系執行部を公認。
14:00 法学部学生大会22号館301教室で再開(11.24中断のため)され1500名が結集したが、民青執行部がリコールされそうになったため、10名の不足を理由に「学生集会」となった。
◎一文臨執は11.28学生大会に関する報告書と議案書、署名用紙(コピー)を提出し、新保教務主任に学部長との会見を要請する。(翌日、新保教授は浅井学部長に非公式に会見を要請するも、当局は拒否回答)

【商学部学生大会臨執には革マルシンパも】

「商学部学生は午後3時半から約1600人が出席して10号館で開かれたが、同学部自治会は革マル派が執行部をにぎる最後の拠点で、革マルシンパとみられるグループの抵抗が目立った。同学部の大会定足数は、大学当局が決めた在籍者数(6000人)の『3分の2』と、現執行部が主張する「3分の1」の二とおりの規約があり、この日の参加者はいずれの規約をも満たさなかった。しかし『3分の2』は大学側の押付けだと否認。あくまで『3分の1』の規約を守ろうとする革マル派らしいグループの主張をも」実際の登校者数からみて現実的でない』として退けた。結局緊急動議で5分の1を定足数とする決議を採択“大会成立”を宣言した。
主催者側はこの決議の根拠があいまいであることを認めており(注)、革マル派は規約不履行を理由に大会不成立を主張するものとみられる。
また臨時執行部22人を選出したが、立候補制にしたため全学議長団などによると、革マルシンパとみられる者も4、5人含まれているという。今後、クラス委員の選出などで、他学部と違い商学部臨時執行部の運営は難航が予想される。」(1972年12月2日付毎日新聞)
注:昭和44年、4000名出席の学生大会で定足数を3分の1以上に変更。(『早稲田キャンパス』168号)

【「川口君のお母さんを囲む父母の会」開かれる】

教育学部の父兄の呼びかけで、川口君のお母さんを囲む父母の会が、1日夜、川口サトさんを迎え千代田区の主婦会館で開かれ、15人の父兄が集まった。出席した父兄は、「息子や娘を安心して通わせられる学園に……」と、村井資長総長に面会を求め、責任を追及することになった。4日午後1時に大隈銅像前に、川口君の事件に関心を持つ早大生の父母にできるだけ多く集まってもらうよう呼びかけることが決まったが、すでに参加の意思を明らかにしている父母は50人以上とのこと。席上川口サトさんは「大三郎が殺されたことに対して大学が私に謝罪したのは、通夜の席での村井総長の簡単なあいさつだけ」と言い、「大三郎が殺されたことに、大学は本心から責任と痛みを感じているのかどうか、同じ親の立場で大学に聞いて下さい。私はいまの大学のやり方は信用できないし、その無責任さは許せません」と訴えた。(1972年12月2日付朝日新聞より)


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第一文学部臨執声明No2「クラス協議会」を創設し、自治会再建への巨歩を推し進めよう! 第一文学部臨時執行委員会