1972年11月24日(金)文学部28日、政経学部30日、学大の日程決まる

提供: 19721108
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【概要】

本部で全学集会が開かれ「「革マル糾弾」「11.17告示の白紙撤回」「村井総長は全学団交に出席し責任を明らかにせよ」などを決議し、午後には記者会見で「文学部では28日、政経学部では30日に学生大会を開き、革マル執行部をリコールする」と発表した。文学部では革マルによる「処分撤回、弾圧粉砕」の集会が開かれており、本部から帰った文学部クラ討連のメンバーと小競り合いになった。その後、本部からの応援部隊と革マルとの間に揉み合いが繰り返され、最後はゴボウ抜きで革マルは学外に押し出された。また、この日は法学部で学生大会が開かれ、「革マル追放」を決議した。

【この日のできごと】

正午すぎ 本部図書館前に各学部の学生500人が集まり全学部連絡会議主催の集会が行われ「11.24アピール」(「革マル糾弾」「11.17告示の白紙撤回」「全学団交を要求」)を決議する。
◎法学部で学生大会が開催されるが、下記の革マル派との対峙で中止となる。
◎文学部ではクラ討連を中心とする学生2000人と革マルとの実力対峙が発生する。混乱の最中、2J級友の一人がたまりかねて田中敏夫を殴打する。田中は病院で受診後帰宅するも、その後再来院して自ら入院を求めた。これについて革マル派は、頭部のケガと恣意的な重体説を流布した。

【田中前委員長負傷の真相】

文学部での混乱の最中に、革マルの田中敏夫前委員長がケガをして東京女子医大病院へ入院するという事態が起こった。「この衝突で田中委員長が負傷、東京女子医大病院で治療を受けた。同病院の話によると、田中委員長はいったん帰宅したが、午後8時50分『頭が痛い』とふたたび来院、検査したところ後頭部を打った模様なので同夜は入院した。」(1972年11月25日付毎日新聞)さらに翌25日には新宿・三福会館で記者会見を開き「田中敏夫早大自治会委員長の24日の負傷は、暴力否定といっている民青系学生の反暴力が政治的なものであることを示すもので、今後民青系に対して自己批判を要求、抗議を続ける。暴力による解決はできないという認識はあり、基本的には一般学生との話合いを前提としているが、一部のセクトが規約を無視して学生大会を開こうとする以上は、対決する。」(1972年11月26日付朝日新聞)
こうした革マルの情報操作に対し、12月に入り2J 11.8行動委員会から経緯を明らかにした「『田中君負傷事件』について」と題したビラが出された。
「去る11月24日、文学部中庭では、他大学の学生を導入したカクマル※派の集会が持たれていました。そのカクマル派を同じ時中庭集会を持っていた学生が排除するときに生じた混乱で、田中元委員長を殴ったのは、2J 11.8行動委のメンバーS君でした。S君は、川口君と特に親しかった友人であり、川口君が虐殺されたことに対し、またカクマル派の「自己批判」たるものが川口君の「スパイ行為」たるものの論拠を次々にすりかえていること、事実の一切を「権力との緊張関係」という理由のもとに隠蔽し続けることに対し、腹の底より怒っていたのです。
24日の夕刻、中庭階段付近で早大カクマル派の責任者、田中元委員長を見つけたS君は「おまえらはそれでも自己反省しているのか」と言って田中元委員長に近づき、「殴らせろ!」と直接田中元委員長に言いました。そしてS君は田中元委員長のメガネをカクマル派幹部M氏に渡し、「殴るぞ!」といい、うなずいた田中元委員長のあごにアッパーを一発さく裂させたのです。田中元委員長は腰を浮かし、ひざからその場にくずれたのであります。そしてその後救急車が来るまでも田中元委員長は、平常通りの会話をしていました。しかるにその後、カクマル派の情宣ビラでは、田中元委員長の頭蓋骨骨折を大きく報道したため、S君は「頭を打ったはずはない」と確信を持ちながらも女子医大に見舞に行きました。詳しく症状を知ろうとしたけれども、田中元委員長との面会を断られ、そのまま帰らざるをえませんでした。そして後日、S君が彼個人の怒り、固い決意の下、田中元委員長を負傷させた事実を明らかにするため、警察に行ってもよいと申し出たところ、カクマル派幹部氏は、数回にわたり「自首だけはしないでくれ」とS君に念を押したのです。
しかし、カクマル派は、その後2J 11.8行動委への中傷を繰り返し、それを政治的に利用して、一文学生の総意で勝ちとられた私たちの学生大会及び臨執を無効にせんとしています。2J 11.8行動委員会は、以上のS君の自ら語った『田中元委員長負傷事件』の真相を学友の前に明らかにします。
(中略)
S君の行動は、11.8川口君虐殺に対する怒りから発したものであり、カクマル派ひとりひとりが自分の言葉で虐殺に対する自己批判をすることがすべての前提であることを再確認しようではありませんか。私たちは、今までの運動の原点に戻り、虐殺に対する怒りを、更に深め、組織化していかなければならないことを、再度全学友に呼びかけるものです。(72.12.4)」
※「革マル」を「カクマル」と」表記するのは中核派に限られたことではなく、当時では一般的であった。

【新聞の見た早稲田】

1972年11月25日付の朝日新聞に「新しい自治会像どう見つける。革マル派糾弾だけでは実らぬ」という中見出しで解説が載った。
「リンチ殺人事件をきっかけに始まった早大の自治会改革運動は全学に広がっている。しかし、望まれる自治会の具体的イメージについては、各学部で運動を進めている学生の間で必ずしも明確にとらえられているわけではなく、革マル派執行部がリコール運動に応じようとしないことも含めて、新たな自治会“創造”の前途にはまだ難しさが見られるようだ。
現在、文学部では革マル派執行部のリコール運動を続けているクラス討論連絡会議などのリーダーは、これまでの文学部自治会の状況を「革マル派による武力制圧」としてとらえている。しかし、革マル派に対する警戒心が、一方で他セクトによる介入を極度に警戒する態度をも生み、新しい自治会の展望も「自治会とは何か、から出発する」といったところにとどまっている。
こうした傾向は、民青系、革マル系がそれぞれ執行部を持つ“二重構造”の政経、教育、社会科学などの学部でも根強くみられ、22日の政経学部集会でも「革マル派執行部の存在を認めない」に並んで「民青系執行部も直ちに解散せよ」が決議された。
政経、教育両学部と第一文学部は、27日以降30日までにそれぞれ学生大会を開き、執行部の“一元化”を進めることになっているが、学生大会で何をどうするのかといった点になると、とたんに焦点がぼやけてくる。
各学部でこれまで行われたクラス討論の中では、自治会無用論から三役公選論などまで立場の違いからくる意見が次々に出され、集約がむずかしいという声も聞かれる。自治会運動を「暴力のない」とか「われわれ自身の」とか抽象的な言葉で論じているのが現段階で、具体的な運動方針が出せるかどうかは学生大会までの議論の深まり具合だといえる。
一方、こうした動きに対して革マル派は「現在のリコール運動は自治会規約と手続きを無視している」「民青系など他セクトの乗取り策である」とし、連日集会を開いて巻返しに転じてきた。
その巻返しは、いまのところ、たいした効果をあげているとはみえない。しかし、一つのセクトに偏らない新しい自治会の形成は、革マル派執行部の糾弾だけでなく、進んで自治会の正常なあり方や、どういう活動をしてゆくのかという具体的なイメージを打出せるかどうかにかかっているといえる。」

【リンク】

学生大会開催・リコール運動推進に向けて!(馬場確約書) クラス討論連絡会議
すべての闘う学友は行動委へ結集せよ! 仏文行動委 表面
すべての闘う学友は行動委へ結集せよ! 仏文行動委 裏面