1972年11月14日(火)機動隊によって革マル救出。クラス討論連絡会議発足

提供: 19721108
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【概要】

当局は革マル派保護のため機動隊を要請。16時間に及んだ徹夜集会は、権力による革マル救出という形で幕を下ろした。一・二文、法学部等でクラス討論会が開かれ、一文ではクラス討論連絡会議発足。全学集会を要求して署名活動を始めた。村井総長が毎日新聞掲載の記事で「川口君が(殺された理由は)反早稲田祭を掲げるグループの一員だったから」と言及。

【この日のできごと】

明け方 180名まで減った学生も、夜が明けてからは再び増えて300人に。
 7:45 大学当局は「革マル派学生保護のため」機動隊員200名を導入要請し、田中ら7人を”救出”した。その際、学生たちは機動隊からジュラルミン製の盾で殴られるなどの暴行を受ける。(学生たちは機動隊が革マルを逮捕しにきたと勘違いして、スクラムを組んで彼ら7人を守ろうとした)
◎一・二文連合教授会・教員会は「学生諸君へ」を告示し、18日まで一週間の休講を告知した。
◎村井総長は毎日新聞記者と単独会見し「派閥抗争の犠牲」と責任を学外要因に転嫁し、殺された原因は「川口君が”反早稲田祭”を掲げるグループ゚の一員だったこと」と述べた。(翌日朝刊に記事掲載)
◎各学部で「クラス討論連絡会議(クラ討連)」発足に向けた動きが始まる。

【一・二文連合教授会・教職員による「学生諸君へ」】

「学生諸君へ
文学部学生川口大三郎君のいたましい死に関し、われわれはいかに処すべきかを真剣に
検討してきたが、昨日の教授会・教員会において、11月10日の告示にもとづき、第一・
第二文学部自治会執行部の処分及び当分の間の活動不承認を決定した。これは、学内正
常化のためのやむを得ざる処置である。
われわれは、学園の平和回復こそが川口君の死を悼む唯一の道であると信ずるので、そ
の方法を求めて、諸君と共に、深い反省の上に立ちつつ、このたびの問題を考えてみたい。
従って、今週中は授業を行わないが、われわれはこの期間も出校して、諸君と話し合い
たいと望んでいる。
なお、今後、学内整備の作業も行ないたいと考えているので、構内立入禁止の措置をと
ることもあり得るが、学生諸君はれに協力されたい。
昭和47年11月14日
早稲田大学
第一・第二文学部教授会・教員会」

【村井総長が毎日新聞に「川口君は反早稲田祭のメンバーだった」】

———— 総長として、こんどの事件についてどう考えているか。
村井 どんなに過激な行動であっても、学生が自治活動という形で行動している以上、ともかく私たちは学生に背を向けないで対応していこうと考えてきた。しかし、現実にこんどの事件が起きてみると、学生個人に対する信頼と、彼らの集団というか自治会に対する信頼とを分けて考えるべきだった。そのけじめに甘さがあった。学部自治のもとで学生の指導、訓育の権限は学部教授会に委譲している。こんどの素地を放置した責任は学生の責任、学部の責任、広くは大学全体の責任ではあるが、当面、文学部教授会が明確な責任をとり、同時に自治会の責任を問うたわけだ。
———— 学生の声を聞くと、文学部などでの革マル派の暴力横行という状態からみて、川口くんの死は起こるべくして起きたと指摘しているが。
村井 いまの学生運動の派閥抗争の実情は、結局のところ自分たちの主張を通すのは”力”だということなのだ。民青系の諸君の言葉による”革マル派の暴力支配”の下では、反対者の言論の自由は封殺される。その意味では事件の素地はあったとは思う。ただ、自治活動は大学側がどうこういうものではなく、学生がやるべきものだ。革マル派の支配を学生が決めていたのだとしたら、それもひとつの自治だという考え方もあろう。もし、学生が自治を放棄して特定の過激派集団のほしいままにしていたのなら、学生はいつの時点かに、学部に自治会の解散を申入れるべきだった。自治活動そのものがすでに自治活動ではなかった。それを放置したことについては、早稲田大学だけにとどまらず、日本の大学人すべてが考えなければならない。居直るようだが社会全体が経済の発展が社会の進歩であるかのように考え、大学を見殺しにしてきたのではないか。
———— 文学部では革マル派がこわくて登校できない学生が50人もいて、そういう学生には試験のさい大学職員が送り迎えするといったひどい状態があったが。
村井 確かに革マル派は悪いが彼らがねらうのは派閥抗争の相手で一種のケンカだ。ケンカは力の強い者が弱い者を倒す。この暴力が正しいと信じることを勇気をもって主張するという言論の自由を尊ぶ人に対して起きたのだとすれば、それを放置した責任は大きい。だが、私たちの調査したところでは、こんどの事件の直接の原因は、川口君が”反早稲田祭”を掲げるグループの一人だったことだ。早稲田祭は革マル派が牛耳っている実行委員会が運営していたが、川口君の関係していたグループは、早稲田祭のとき浦和で”反早稲田祭”を開き、ビラをまいたりした。そのグループと革マル派の間の派閥抗争の論理がこんどの事件にははたらいている。派閥の存在を許している大学の責任という意味ではおわびをするが……。(以下省略)(1972年11月15日付毎日新聞)

【リンク】

11月13日~14日経過報告 議長団