私の回想~会うことのなかったO先輩に捧ぐ 第一文学部1年J組 T・H
提供: 19721108
- 早稲田大学時代の友人から「Oさんという先輩を知っているか。急死され、追悼集を出すことになり、出版社が君に連絡を取りたいと言っている」とのメールが来た。了承すると、出版社の経営者兼編集者から資料が届いた。Oさんは旭丘高校20期で、私の3年先輩。早稲田に私は一浪して入学したので、高校、大学のいずれでも、同じ時間を共有したわけではない。
- しかし、編集者から届いた資料の中に、旭丘で大変お世話になった恩師・H先生が書かれた原稿があった。デモ、全校集会、制服制度廃止……1960年代後半の旭丘を覆った「政治の季節」に教師集団がどう対処したのか詳細に描かれていた。半世紀近く前の高校時代のことが鮮烈に蘇り、心が湧き立つ思いだったが、生徒側であった私の見方とは異なる部分も含まれている。
- さらに、私が入学した72年当時の早稲田大学は、新左翼系セクトの革マル派(革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派)がキャンパスを文字通り暴力支配していた。第一文学部の同じ語学クラスの先輩が革マル派にリンチされ、殺された事件が起きたのを機に、キャンパスに自由を取り戻す闘いに否応なく参加したものの、鉄パイプで襲われ、心身ともに傷ついた。奥村先輩もまた旭丘高校、早稲田大一文の両キャンパスで青春を生き、早大闘争で傷ついたという。やがて詩人・俳優となり、2年前、突然の死を迎えられたと聞く。この拙稿が天国のO先輩の追悼につながればと願う。
(中略)
- 旭丘高校の「政治の季節」の思い出に紙数を費やしてしまったので、早稲田大学第一文学部での話は手短にまとめたい。
- 私が早大一文に入学したのは1972年。J組という中国語の語学クラスで、担任の教授が挨拶をしていると、自治会でJクラス担当だというHと名乗る学生が入ってきた。「大学の講義は90分とされているが、後半の30分は我々が長年の闘いで勝ち取った自治会の時間です」と言い、教授を外に追い出して、第一文学部学生自治会の現状や歴史などを語り始めた。キャンパスの周辺のあちこちで革マル派のヘルメットをかぶった、いかつい表情の学生らが警戒しながらチラシを配っているのも異常だったが、連日の授業に介入し、新入生に思想調査さながらの質問を繰り返す姿に、クラスメートから激しい反発の気持ちが芽生えた。
- やがて、「第一文学部自治会選挙闘争委員会」という「組織」がつくられ、この闘争委員会の指導で、革マル派に親近感を持つクラス委員の選出を促された。我々1年J組は、この指導に抗って温厚な人柄の対立候補を立て、投票によって、この対立候補をクラス委員に選んだ。この時、私は闘争員会のメンバーから文字通り睨まれ、「自治会室へ来るか」とすごむような声音で言われたのを覚えている。
- 5月の連休明けに開催された学生大会の異様さも忘れられない。体育館の会場の様子を見に行った級友が血相を変えて戻ってきて、「大変だ。1年J組の座席のプラカードが会場の最前列の真ん中に用意されている」と伝えた。危険を感じて、クラス委員の出席は断念してもらうことにし、しばらく様子を見たあと、私を含めた級友たちはばらばらに会場に入った。会場では革マル派独特の長文の大会決議案を読み上げたあと、決議案への賛否を問う投票となった。この時、賛成票を入れる投票箱は普通の箱だったのに対し、反対票を入れる投票箱として使われたのは、「ゲバマル」(ゲバルト=暴力を振るう革マル派の活動家)と呼ばれた学生が手にする革マル派のヘルメットだった。私たちは反対票を投じる気持ちをそがれ、黙って会場を出るしかなかった。
- 6月末、私たち1年J組の有志は『群稲』という同人誌をつくった。小説、詩、随筆、評論など一切自由な内容で、15人がペンネームで原稿を書いた。私は「我がミスターZ氏を解剖する」というタイトルのノンフィクション小説?を書いた。今読み返しても赤面する稚拙な内容だが、上記の革マル派のHのことを「ミスターZ氏」=「月光仮面氏」として、皮肉を込めて描いた。「本物の月光仮面は毎週日曜日の30分間だけだったが、我が無名の月光仮面氏は週に3回から4回、我々の教室に現れて、『私は正義の味方』と演説をぶつ。しかも我々の意志でチャンネルを切ることなど認めてくれやしないのだ」「月光仮面氏とその仲間が最近、主要な目標としているのは、彼らの敵であるマンモスコングを残らず叩き出すことと、この早稲田大学に『月世界』=理想郷を創ることのようだ。そのために彼らはこの大学から汚染源である空気を一生懸命抜こうとしているように私には思える。空気を抜けば、地球人である私たちは生きてゆけない。……」
- 級友たちは、この原稿を別冊として本体から切り離し、目次からもはずして、「この作品の存在はクラスの中だけにとどめてほしい」との注意書きを書いて、発行した。そうした配慮がなければ、このあまりにも無防備な作品は革マル派による弾圧の対象になっていた可能性があると思う。
- 早稲田祭が終わって間もなくの11月8日、決して忘れることができない事件が起きた。この日午後、私たちの語学クラスの1年先輩、2年J組の川口大三郎さんが革マル派の活動家らに文学部キャンパス内で拉致され、自治会室と彼らが称していた教室に連れ込まれた。拉致される際、たまたま一緒にいた2Jのクラスメートらが救出しようとしたが、阻まれ、翌日朝、凄惨な暴行の跡を残した川口さんの遺体が東京大学本郷キャンパスの正門前で発見された。川口さんは革マル派と対立していた中核派の活動家と疑われ(事実は異なっている)、その追及の過程で集団リンチを受け、絶命したのだ。
- 革マル派の思想・主張がどうであれ、こんな殺人事件を起こし、キャンパスを暴力支配する体制は絶対に許せない。少なくとも、私はそう考えた。事件の3日後の11日に1年J組の仲間たちと一緒に、文学部キャンパスの入口のスロープわきに立ち、「革マル派自治会を糾弾するため、立ち上がろう」と呼びかけた。賛同の輪が次々に広がった。最初のころ、そのほとんどは1年生のクラス単位での参加だった。A、B、C、D、E、F、G、H、I、K、L、M……。それぞれのクラスの代表らの名前、顔を今でも思い浮かべることができる。
- 入学して初めて立て看板を書き、プラカードをつくり、ハンドマイクを入手して、「これまで早稲田には自由がなかった」「自由なキャンパスを取り戻すために、革マル派の自治会をリコールしよう」と口ぐちに訴えた。私たちは、暴力の恐怖で上から押し付けられた自治会ではなく、クラス討論をもとにした手作りの自治会をつくる。そんな思いを込めて、「第一文学部クラス討論連絡会議」と名乗ることを決めた。
- そのさなか、私は川口さんと同じ2年J組の知り合いに喫茶店に呼び出された。「そんなことをしていると、間違いなく革マル派に襲われるぞ。俺たちは革マル派に見つからないように、こうして喫茶店を転々としながら横の連絡をつくっている。身の安全をもっと考えろ」とまくし立てられた。そうか、2年生以上がなかなか集まらないのは、革マル派への恐怖心が身にしみついていたためだったのか、と納得した。しかし、文学部スロープ下の集会は、約500メートル離れた本部キャンパスでの学生集会とも呼応して、数千人単位、さらに1万人以上の規模に膨れ上がり、連日続いた。両キャンパスを埋め尽くす学生たちの歓声、拍手、マイクを通して響き渡る訴え。その盛り上がりは、11月17日に大隈講堂で開催された川口君の学生葬で頂点に達した。川口君を女手一つで育てた母親、さとさんが出席し、無念の思いを語ると、会場は涙で包まれた。学生葬には、革マル派の文学部自治会の田中委員長も途中から押し入るように出席した。2Jの川口君の級友たちが号泣しながら、「川口を生きて返せ」と田中委員長に詰め寄っていた光景が忘れられない。
- 11月28日、全学の学生らの支援を受けて、第一文学部学生大会を開催した。大歓声の中で、革マル派自治会執行部のリコールを可決したあと、自治会の再建を担う臨時執行部を選出。私はその臨時執行部の委員長に選ばれた。「川口君が殺された事件を機に、怖い物知らずの1年生が動き出した。たまたま最初に『この指止まれ』と指を差し出したところ、その上に何千もの仲間たちが重なってくれた。今は、その重みにつぶれそうだが、最初に指を出した者の責任を自覚し、早稲田に自由を取り戻すため、最後までやり抜きたい」。当時、私はこんなことを集会などで話していた。
- しかし、発足した臨時執行部はさまざまな考え方、背景を持つ者の寄り合い所帯だった。私を含めた1年生グループは、地道なクラス討論を踏まえた手作り自治会を志向していた。これに対し、かつての全共闘運動、あるいは革マル派と敵対する諸セクトにシンパシーを持つ上級生の執行部メンバーも多く、共産党の下部組織である民主青年同盟に所属する者もいた。
- 革マル派の自治会リコールでは一致していても、その後の闘い方、自治会再建のあり方をめぐってとめどなく議論が続いた。その一方で、学生大会を終え、冬休みをまたいだ時期から、集会などの動員力が次第に衰えてきた。革マル派は、それを待っていたかのように、さまざまな形の暴力を使い始めた。たとえば、私たち臨時執行部側の集会を集団で妨害し、発言者を取り囲んでつるし上げる。個別の恫喝によって自己批判を強いるのだ。その被害にあった1年生の仲間の何人かが、運動から離れていった。私自身も、革マル派の学生に捕まって壇上に立たされ、両手を後ろ手に締め上げられながら、様々な追及を受けた。彼らは私に、中国の文革で紅衛兵の追及を受ける走資派といった役回りを演じさせようとしたのだと思う。
- 政経、法、教育学部などがある本部キャンパスでは、革マル派と中核派の鉄パイプ部隊が激突する「戦争」も起きた。深夜、私たちのデモ隊が政経学部の学生ラウンジに閉じ込められた後、私たちの面前で両グループの精鋭部隊が鉄パイプを揃えて対峙し、「戦闘」が始まった。「ヒュー」「ヒュー」と投石が宙を飛ぶ音が響き渡り、双方の活動家(主に中核派の活動家)が倒れ込む。「戦争という表現は決して大げさではない」と思った。
- キャンパスの学生が少なくなった春休みになると、革マル派の凶暴性がさらに増した。本部キャンパスの教育学部校舎の教室で開いた小さな集会が革マル派の襲撃を受け、多数の負傷者が出てしまった。革マル派の男たちが無防備な私たちを教室の隅に追い詰め、一人ずつ鉄パイプで襲った。私の脳裏には今も、その光景がスローモーションの映画の場面のように焼きついている。最初は傘や竹竿でめった打ちにしたあと、男が「鉄パイプ」とつぶやく。わきで控えていた部下が鉄パイプを差し出すと、黙って受け取り、おもむろに鉄パイプを振り下ろす。男は口を半開きにし、終始、不気味なほど無表情だった。悲鳴をあげる仲間の苦しげな顔。鉄パイプが額にあたる時の「ビシッ」「ビシッ」という無機質な音。ほとばしる鮮血。大学を卒業し、社会人になってからも、ひどく疲れた夜などに、そうした場面の夢でうなされ、思わず飛び起きたことが何度かあった。
- こうした革マル派のむき出しの暴力、テロに、どのように立ち向かうのかをめぐり、自治会執行部内の意見は割れた。「暴力に対抗するには、われわれも自衛のため武装するしかない」「ヘルメット、竹竿は全共闘運動のスタイルだ」などの主張に、私は反対した。「革マル派がもし、日本全国をくまなく暴力支配している状態なら、私も武装に賛成するかもしれない。しかし、彼らが暴力支配しているのは早稲田のキャンパスの内側だけで、キャンパスから一歩外で出れば、平和な日常がある。そんな中で武装しても、われわれが依拠すべき学生の支持は得られない」。私の持論はなかなか受け入れられず、激しい議論が何日も続くだけで、どこまでも平行線のままだった。
- 私自身が革マル派に鉄パイプで襲われたのは、キャンパスに新入生を迎えた5月初めだった。学生集会を開くため、文学部キャンパスの大教室の前でマイクを持って新入生に呼びかけていたところ、突然、見覚えのある革マル派の学生が現れ、「こいつがHだ」と指さして叫んだ。すると、見知らぬ数人の男たちが私を羽交い絞めにし、押し倒した。「足を狙え」という声とともに、私の両足などをめがけて鉄パイプが何度も振り下ろされた。「学館へ連れていけ」という声も聞こえた。私は近くの鉄柱にしがみつき、身体をエビのように横たえていた。鉄パイプは腕と頭部にも振り下ろされた。男たちが去ったあと、私は救急車で広尾の日赤病院に運ばれ、入院した。両目は内出血で真っ赤になっており、両足の足首ははれ上がり、看護師さんから「ゾウさんの足みたいですね」と言われた。
- 退院後の約1カ月後、私はやっと歩けるようになり、級友たちに守られて登校し、授業を受けようとしたが、革マル派の学生らに見つかり、級友たちとともに教室に長時間閉じ込められた。救出にかけつけてくれた別の仲間の先導で、なんとかキャンパス外に逃れたが、もう大学には通えず、その後3年間、社会学ゼミの農村調査以外のほとんどの課目をリポート提出でしのぎ、やっとの思いで卒業した。
- 私たちがキャンパスに入れなくなるとともに、第一文学部自治会の活動は停止状態となった。「武装」を主張した仲間たちは一度、ヘルメットと竹竿の姿で文学部キャンパスに並び、日常生活に戻っていた学生たちに「もう一度立ち上がろう」とハンドマイクで呼びかけたという。「最後の闘いの場」として本部キャンパスの図書館に立てこもり、機動隊に排除され、逮捕された者もいる。
- 闘いの結末は、決して誇れるものではない。しかし、自由を求めてセクトの暴力支配に「ノー」と言い、クラスの討論をもとにした手作り自治会を目指した私たちの闘いは、間違っていなかったと思う。私は、早稲田の私たちの運動を、自由を求めて立ち上がり、ソ連の戦車に押しつぶされた『プラハの春』になぞらえて考えている。
- 私は大学卒業後、1978年に朝日新聞社に入った。記者生活の大半を事件記者としてすごしてきた。87年5月3日に兵庫県西宮市の阪神支局で後輩記者が「赤報隊」を名乗る右翼とみられる犯人に散弾銃で射殺される事件が起きた後は、取材班のキャップとして時効成立まで16年間にわたって犯人を追いかける取材を続けてきた。取材の途中で脅されたことも度々あるが、「反日朝日の社員を死刑にした」「赤い朝日は50年前(戦前)に返れ」という赤報隊の主張を認めてはならない。右翼への取材は、定年で契約社員となった今も続けている。私は、社内でのいわゆる出世コースには乗らなかった。残る人生も、自分らしく生きたいと思っている。