「大ちゃんはいつも明るい元気な、人様に好かれる人間だった」(母)

提供: 19721108
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昭和47年11月8日。私にとって終生忘れる事のできない日となりました。人の世の母としてあまりにも残酷な悲しい日でした。嘆き、悲しみ、そして怒り。此の気持は何と表現して良いのか、とうてい人様にはわかってもらえない当事者だけのものなのです。
「お母さん、友達を天城に案内するからね。11日にたのむヨ。いい」と、元気な声で6日に電話がかかってきました。それが大ちゃんと話した最後になりました。あんな元気な子が殺されるなんて。しかも、学校の中で白昼に…。私は今でもなんだか信じられないのです。冬休みになれば、いつものショルダーバッグを肩にジーパンでニコニコしながら帰ってくるような気がしてならないのです。
ですから、学生葬の時も革マルの前委員長の田中君が私の前に立ち頭を下げた時も、不思議と怒りはわきませんでした。それより、この大隈講堂をうめつくした学生の中に捜せば、きっと大ちゃんがいる。どこかにきっと生きているんだと愚かな気持で一杯でした。
チルチル・ミチルは永遠に青い鳥を求めて元気に旅を続けているでしょう。しかし、私には大ちゃんという青い鳥は、二度とつかまえる事のできない遠い遠い所へ飛んでいってしまったのです。母のあたたかいふところから…。
想い出を書く様にとの事でしたが、さて想い出となるとあまりに多すぎて、ノアの洪水のように私を押し流してしまいます。誕生から20年間。母と子にはあんな事こんな事何一つ想い出とならないものはないのです。ですが、結果的には、何一つ書く事はできませんでした。
しかし、私が胸を張って皆さんに言える事は「大ちゃんはいつも明るい元気な、人様に好かれる人間だった」ということです。
(伊東高校山岳部OB会発行「川口大三郎遺稿集」掲載)