「大ちゃんの遺志どおりに、一日もはやく暴力のない大学になってほしい」(姉)

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大ちゃんが、私の家に来たのは、46年3月、早稲田の合格が決まり、入学までの間家の土建業の仕事を手伝ってくれていた。その時から、ずっと家でアルバイトをしながら学校へ通っていた。肉体労働なのでつらかったと思うが、よく頑張り通した。うちの若い衆からもとてもかわいがられていたし、仕事先でもとても評判がよかった。明るくてユーモラスな子だったから、だれからも好かれていたと思う。いつも相手の立場になって、ものを考えることができる子だった。だけど、あんないい子が、なぜ、死んでしまったのだろう。
事件のあとでいろいろな事実がわかってくると、大学というところは、私達には想像もつかないところらしい。私達が話を聞いただけでもびっくりするくらいだから、少しでも正義感のある学生だったら、それに反発するのはあたりまえだと思う。一般学生の中には革マルに反感をもっている人はたくさんいると思う。大ちゃん達みたいに、それを行動に移せばにらまれるのは当然のことだ。
大ちゃんはそれを覚悟で運動をしていたのだと思う。大ちゃんのやっていたことは学生運動とは別のものだと思う。本人だって「おれは学生運動っていわれかたはいやなんだ」とよく言っていた。だけど、新聞には、大ちゃんが中核派の学生であったように書かれた。大ちゃんは人種差別問題にひじょうに興味をもって、その事に関しては中核派の集会にも出ていた。集会に出たって、党員とはかぎらない。家にもよく電話がかかってきたが、大ちゃんは、よく居留守をつかっていた。あまり電話に出ないので、電報まで打ってくる。
とにかくしつこい。大ちゃんは「彼等とは意見が合わないし、しつこいよ」と話していた。大ちゃんは中核派など、ぜったいに入っていなかった。新聞や、雑誌というのは実に無責任にものを書く。あの事件のときだって、加害者側の言い分ばかりのせて、被害者側の方はそっちのけ、だいたい人を殺した方が、よくも堂々と、人前に出られるものだ。そして、その一方的な意見を新聞がのせているのだから、世の中狂っている。雑誌などは、うちが父親がいないということでまるでひどい貧乏の子が大学へ行っていたように書くし、たしかにうちは父親がいない。けれど、家の中はいつも明るくて、楽しかったし、私達だってなんの不自由もなく高校まで出してもらった。ただ興味本位で、あることないこと書かれたのでは、いいかげん迷惑だ。いつか大ちゃんが「おれは、犠牲になってもおれのあとに続くものがいればいいんだ」と言っていた。最初に物事にとりくむものは必ずといってよいほど犠牲になるものだと思う。この犠牲をぜったいに無駄にしてほしくない。
町で友達と楽しそうに話したり笑ったりしている学生達を見かけるたびに、なんで、大ちゃんだけが死んでしまったのかしらと思う。あの時、そばにいた友達が一言、110番してくれたら。見にきた先生が、一歩、教室の中に入っていてくれたら。毎日毎日そんなことばかり考えている。学校も、先生も、友達も、みんなにくい。革マルや中核の学生はもっとにくい。私達の平和だった家庭をメチャメチャにした犯人は、大ちゃんと同じめにあって死んでしまえばいい。
一部の人達をのぞけば、みんなこんな事件には、無関心といった感じ。早稲田の学生達もヘルメットをかぶって騒いでばかりいないで、もっと他のやり方がないものかしらと思う。この事件をきっかけに、早稲田がよくなっていけば、ほんとうによいことだけど、私には大ちゃんのいない大学なんて関係ない。
早稲田なんて、聞いただけで悲しくなり、又、恨みたくもなるが、とにかく大ちゃんの遺志どおりに、一日もはやく暴力のない大学になってほしいと思う。
(伊東高校山岳部OB会発行「川口大三郎遺稿集」掲載)