1973年2月1日(木)一文は1月30日学生大会決議による第二波1週間ストライキ(1/31~2/6)に突入。

提供: 19721108
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【概要】

新執行部によるストライキが決行される中で、2月に入ると当局から定期試験の日程変更に関する告示が頻繁になる。学年末試験については中止、延期、あるいはレポートへ。卒業試験についても教場試験を取り止めてレポートにする学部(政経)もあった。ストライキ決行中の学部でも、そうした告示を見るために登校する学生が多く、クラス単位の活動もまだ続行していた。

【この日のできごと】

◎一文では1月30日の学生大会の決議により、新執行部・行動委員会を中心に早朝から登校して、学年末試験阻止のためピケストを貫徹した。
◎教育学部でクラス委員総会を開催。
●保田順三郎政経学部長が先の教授会で示した辞意を撤回。


【教育学部当局の見解を巡っての討論】

教育学部で開かれたクラス委員総会では、1月23日に示された当局の見解に対する評価と2月5日以降の方針を中心に討論が進められた。見解を懐柔策とし、波状スト体制下での団交実現と当局への糾弾が決議された。一方で、見解を一定評価し、スト打ち切りの意見もあった。

【教育学部当局の見解】

「教育学部全学生諸君へ
1月23日、教育学部専任教員会は、新しい自治会の創成を目ざし「教育学部学生自治会常任委員会」(永井友則委員長)を選出した教育学部学生諸君の意志を尊重し、この機関を自治会問題に関して話し合う唯一の代表として認めることを決定した。
1月23日 教育学部専任教員会」

【保田順三郎政経学部長が辞意撤回】

「先月23日の教授会に辞意を表明していた保田順三郎早大政経学部長は1日夜の教授会の席で辞意を撤回した。(中略)『困難な事態に直面している。一致団結して解決を図りたい』と語ったという。また、同学部長に辞表を出していた教務主任、副教務主任(各2人)の4人は同学部長の説得で辞表撤回の方向だという。」(1973年2月3日付朝日新聞より)


【『一文有志の記録』から】

「総括討論へ向けて」
我々の運動の出発点は川口大三郎君が一文自治会室で虐殺された。クラス末端からの「蜂起」的運動。下手人=革マルへの怒りが中心。
●1.8総決起集会~ヘルメット問題~
ヘルメットに対する「過激派」イメージによる感情的な反発。事前に集会の方針に対してクラス内部での討論がなされなかった。革マル派と直接的に対決する部分とそうでない部分との経験が、共有されなくなってきた。(行動隊などの編成)
→クラス総体で対決する姿勢が薄れた。
→怒りだけでは行動出来なくなる。―――分離現象
●自治委員選挙~時期的にも、機構確立の上からも必要~
統一選挙場を設定。行動隊を編成せずにクラス員総体で自らの手によって選挙を貫徹。分離・学外選挙をせずに我々の正統性のもとに最後まで追求したことの成果。
→団結の強化、クラスの再組織化。
●実力闘争~権力との直接的緊張関係が明確化。
~行動委と臨執との関係の不明確さが顕在化。(指揮系統)
●1.19・1.20を境に革マルの戦術転換。
一文に限っては表面的平和共存長期持久戦体制。体制の弱い所に攻撃集中。→突破口。怒りの鎮静化を待つ。
●試験問題の表面化(1.17.18頃から)
それ以前は受けることで一応一致。直接的には17・18に契機。理由(①当局の態度への抗議②受験不可能者の存在――それをきっかけとした分断策動の粉砕)。現在的には、試験制度そのものの根源的な問いではない。―――ストライキ闘争の先取り(1Tがこの頃より闘争の前面に出てくる)~ほぼ全面的に勝利。
●1.23学生大会~予想以上の人数結集(1600人弱)
~試験強行阻止、自治会承認要求。
●1.24~1.30第一波スト~かなりの結集→討論が非効率的――時間の浪費。
全体としてかなり勝利的に克ち取られる。
●1.27自治委員総会~多数のオブザーバー。勝利。
●1.29第2次団交~ゼロ回答。――混乱
●1.30学大~再度の一週間スト。団交から連続的に学大。日時設定のまずさ。
●1.31~2.6第二波スト~結集甚だ悪し。解体現象。
●2.5第3次団交~ゼロ回答。
●2.6・2.7学大~流会。執行委・我々の甘さ。内実のなさ。
◎団交について~大衆性の欠落。(団交技術のまずさ。最初からゼロ回答を予測。)
十人委員会というカイライの存在。――当局のうまさ。→十人委の解体を。
学部段階には限度。→総長団交へ。
◎第二波ストがザルスト化し、第3次団交がなに故に空転せざるをえなかったか?
◎何故に学大が2度流会したのか?

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