私にとっての川口君事件 第一文学部1年T組 H・K

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川口大三郎君が殺された直後のことで、今も鮮明に記憶していることがふたつある。ひとつは川口君が殺されたという新聞記事を見たときの思いだ。11月8日は早稲田祭期間中で授業がなかったため、級友の実家に数人で遊びに行っていた。私が級友達と遊んでいる時に殺されたのかと思うと、いいようのない後悔の念にとらわれた。もうひとつは授業が再開された直後、集会ひとつ開かれていない静まりかえっていた文学部キャンパスのスロープ下で、樋田や安田など1Jクラスの人たちが必死になって肉声で呼びかけていたことだった。周りを取り囲んで、集まっていたのは、かれこれ30-40人だったろうか。私もその中のひとりだったが、自分から声を上げるほどの勇気はなく、彼らの話をただ黙って聞いているだけだった。
私は神奈川の県立高校を卒業して、72年4月現役で第一文学部に入学した。高校は教師がベ平連や民青が学校に押し寄せてくるのを防ぐといって、竹刀を持って泊まり込むようなところだった。その中で生徒たちは従順に、志望大学を目指して受験勉強だけをしていた。私自身はベトナム戦争や三里塚闘争など社会的な問題に関心はあったが、教師のいうことに反論することはできなかった。そして、大学に入ってしまえば自由に行動できると思い、合格をめざした。そして、文学部入学後は、社会的な問題へも関わりたいと考え、授業に出ながら、72年の5-6月頃、ひとりでベ平連のデモに参加するようになった。
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大学にも思い描いていたような自由はないことに気づき始めたのは、夏休み前だったろうか。級友で仲がよかった今は亡きKが早大歴研に入ったものの、革マルの中心メンバーたちと意見が合わず、辞めた。彼は京都で浪人している間にベ平連のデモなどに参加していて、1Tクラスの自治委員になっていた。歴研にいた間は革マルも自分たちの意向に従って、動かすことができる、あるいはシンパになると考えていたのだろう。ところが対立して辞めたために、自治会の革マルからも難癖をつけられたりすることがあった。私には彼らが学生一人ひとりの考え方や行動まで管理・統制しようとしているところまで想像することができなかった。ただ彼がそういう目にあっているのを知って、とてもおかしな話だと思ったし、また自治会室に革マル以外の活動家を連れ込んでのリンチのうわさも聞いていた。その一方で、関わり合いになりたくないという気持ちもあった。
だから、川口君が殺されたというのを知った時の後悔は、リンチされる学生がいることを薄々知っていながら、関わり合いたくないと見て見ぬ振りをしていた自分に対する情けなさが入り交じったものだった。そして、事件が起きた後でさえも、「おかしい」とすぐにクラス討論を呼びかけることができなかったことはその情けなさに輪をかけた。そうした気持ちから、その後の虐殺糾弾・自治会再建運動に加わっていくことになり、それは最後まで変わらなかった。けれども、その中で自分なりの考え方や基準にもとづいて、行動していたわけではない。その時その時の出来事に右往左往しながら、自治会再建がならず、後退していく中で、なす術もなく存在したに過ぎなかった。
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その後、紆余曲折があったが、今私は仕事をしながら、地域の市民運動に関わり、集会やデモに参加している。仕事と活動を併存させるというというやり方は、今までの生活スタイルの中では一番自然だと感じている。だから、仕事がなくなり、身体が動かなくなるまで、同じスタイルで続けるつもりだ。そこで一番意識しているのは、「長いものに巻かれない」こと。少しでもおかしいと思ったら、声を上げること。革マル自治会のやり方が「おかしい」と考えていたのに、声を上げることをせず、「自分には関係ない」とやり過ごしていたことが川口君の虐殺につながったという苦い思いがあるからだ。