川口大三郎リンチ殺害事件の全貌

提供: 19721108
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◆川口大三郎リンチ殺害事件の全貌◆


1972年11月8日、一文2年J組の川口大三郎が文学部構内で革マル派に拉致され、長時間に及ぶリンチを受けて殺害された。ここでは、当時の新聞記事およびその後の出版物を元に、事件とそれに関わった犯人についてまとめた。不明な点も多いが、50年経って知るところのできる事件の全貌である。なお、記載に当たっては当時新聞に報道された氏名をそのまま使用した。


1972年11月8日(水)
◎14時過ぎ 川口大三郎は文学部構内で革マル派自治会役員らにより自治会室へ拉致される。のちに、一文構内で行われた相模原補給廠からの戦車搬出阻止集会へのスパイ活動を自己批判させるためと革マル派は発表したが、実際に集会が開かれたのは18時過ぎからだった。


1972年11月9日(木)
◎午前6時過ぎ 本郷の東大付属病院敷地内で男性の遺体が発見される。
遺体は血のついていないパジャマ姿で足裏が汚れていないため、他所で殺害されて運ばれたものと推測され、警視庁公安一課は本富士署に捜査本部を設置した。
早朝に、川口が帰宅していないことを知った2J級友から110番通報があったこと、および牛込署から二文教務主任への問い合わせの電話で、前日に革マル派が起こした拉致・監禁事件が発覚した。川口は姉の嫁ぎ先に寄宿していたが、その姉が確認し、遺体が川口大三郎であることが判明した。
◎12時30分 馬場素明(24)革マル派全学連委員長(一文4年)は新大久保の三福会館で記者会見を開き、米軍戦車搬出阻止集会へのスパイ活動を追及するなかで「突然ショック的状況を起こし死に至った」と公表した。
◎昼すぎに2J級友により遺体が川口大三郎であることが確定された。また、殺害場所が文学部構内であることも確認された。
◎午後 東大法医学教室で遺体の解剖検証がなされる。全身に無数にある傷は皮下出血の幅が広く、丸太棒か角材で殴られたもの。先の尖ったもので引っ掻かれた形跡も。両手首、上腕、太ももに紐で縛られた跡。強打されたため体全体が細胞破壊を起こしてのショック死。胃の内容物の分析から8日21時から23時の間に殺されたと推定。心臓の様子からは、瀕死の状態まで傷めつけた後に、人工呼吸して蘇生させようとしたのではないかと推測された。
◎24時より翌朝5時まで文学部構内105教室、127~130教室で現場検証が行われた。128室はコンクリート床が畳2枚分程きれいに洗い流されていたが、床や机、椅子など10カ所からルミノール反応があり、かなり大量の出血があった様子がうかがえた。127室にもルミノール反応があり、押収品は13件、86点で角材やバット、衣類など。(後に衣類は川口大三郎のものではないと判明した。)
【補足】11月10日以降、新聞各紙は犯人の特定にやっきとなり、関わった人数や、氏名の頭文字が紙面に踊るようになる。しかし、見張り役を立て、窓ガラスに新聞紙を貼り巡らした密室でなされた犯行のうえに物証がほとんど残されていなかったこと、また、自治会室へと拉致したグループ、暴行を加え殺害したグループ、遺体を搬出したグループと役割が分担されていたことなどから、殺害に関与した実行行為者の個人名を特定することは極めて困難だった。このように、拉致した者とリンチ(殺害)した者とで役割分担していたことからも、綿密な計画性と彼らが如何に“この手のこと”に熟知していたかをうかがい知ることができよう。
☆毎日新聞11月12日付
見出し:三班編成でリンチ
本文:早大生、川口大三郎君(20)リンチ殺人事件の元富士署捜査本部は11日夜までにリンチに加わった「革マル派防衛隊」約20人は“身柄拘束”“リンチ”“死体処理”の3班を編成して行動していたことをつきとめた。(中略)身柄拘束班は同文学部三年、G(24)ら4人で(中略)自己批判を迫るねらいで、8日、文学部校庭でGが川口君を呼びとめ、他の3人が前から引っ張って127番教室に連れ込んだ。つぎにK(24)らリンチ班10数人が、イスに川口君をしばりつけたうえ鉄パイプ、角材などでなぐった。その間、身柄拘束班のGらは一般学生に犯行を気づかれないよう、教室入口で見張りをしていた。ところが、川口君が仮死状態になったので、そのころ同構内で開催中の米軍戦車輸送阻止集会に参加していたA(19)ら3人で新たに処理班を編成した。このためAらは当初の予定の同夜の相模原闘争には参加せず、G、Kら身柄拘束、リンチ班のメンバーが横浜市内のノースピア入口の集会に加わった。Aらは川口君の死がはっきりしたため、同派の茶色っぽい乗用車(註:車種等に関しては73年12月21日読売記事を参照)で、都内のアジトに連れて行き、遺体を裸にして傷跡をふいたあと、パジャマと真新しいパンツをはかせ東大付属病院前で捨てた。
11月11日(土)
馬場素明は2回目の記者会見を行って革マル派全学連委員長を辞任する旨を発表するが、同時に、殺害犯を「絶対に権力側には渡さない」と強調した。同様に、田中敏夫全学中央自治会(兼一文自治会)委員長も毎日新聞の取材に応じて「権力との闘いに敗れたことになり、自己批判した意味がなくなるので、犯人を自首させることは考えていない」と断言した(11月22日付朝刊にインタビュー記事掲載)。
11月23日付朝日新聞では、革共同革マル派学生組織委員会の責任者で最高幹部の一人、土門肇こと根本仁がインタビューに答えて「言うことをきかない子どものおしりをたたいて誤りをさとらせるのと同じだ」と暴力行使の不可避を述べている。
【補足】いずれも、彼らの言う「党派闘争の論理と倫理」が、革マル派という閉ざされた集団でのみ通用するものでしかないことを示す発言だが、そんな理屈が早稲田大学という空間では普遍的真理としてまかり通る現実に早大生は直面させられた。彼らがどれほど「反スタ」を謳おうとも、そこにはスターリン主義的な、己の正当性を示すために歴史を改竄するというご都合主義が存在し、その組織も彼ら自身もスターリン主義(者)そのものであることを示している。そして、そんな彼らを増長させたのは、彼らの存在を暴力装置として許した大学当局だった。


1972年11月13日(月)
文学部当局による、自治会執行機関の活動停止と自治会室の使用禁止、そして自治会三役処分が行われる。
●田中敏夫  第一文学部自治会委員長 除籍
●若林民生  第二文学部自治会委員長 除籍
●大岩圭之介 第一文学部自治会副委員長 停学(無期)
●金子賢治  第二文学部自治会副委員長 停学(無期)
●武原光志  第二文学部自治会副委員長 停学(無期)
●佐竹実  第一文学部自治会書記長 停学(無期)
●竹内政行  第二文学部自治会書記長 復籍を認めず(学費未納で抹籍済)


1972年12月5日(火)
友人(2J級友)への暴行などの容疑で阿波崎文雄(25)、村上文男(24)、近藤隆史(24)、武原光志(21)、佐竹実(22)以上5名が指名手配される。自治会室前および「テレ研」部室に押しかけての暴力行為と「記念会堂」裏での傷害の容疑。殺人に直接結びつく証拠が得られなかったため、まずは、事実関係が明らかになった、川口の級友への暴力行為などに絞っての指名手配となり、不法監禁のみに関与した者への逮捕状請求は見送られた。阿波崎が傷害と暴力行為、他の4人は暴力行為の容疑。
[指名手配]
●阿波崎文雄 一文4年         一文自治会会計部長 傷害、暴力行為
●村上文男  元早大生(1971年除籍) 元二文自治会委員長 暴力行為
●近藤隆史  二文4年         元二文自治会委員長、全中自中執 暴力行為
●武原光志  二文2年(無期停学中)  二文自治会副委員長 暴力行為
●佐竹実   一文3年(無期停学中)  一文自治会書記長 暴力行為
革マル派による証拠隠滅に関しては、阿波崎ら5名の指名手配を報じた12月6日付朝日新聞に「11月9日午後3時過ぎ、殺害現場の早大自治会室から凶器とみられる鉄パイプを運び出す革マル派活動家」とキャプションが付けられた写真が大きく掲載されている。また、12月5日付読売新聞には「逃走中の数人の親元へ友人と名乗る男から『お宅の息子さんは殺人事件とは関係ない。警察がうるさいので安全な場所にかくまっている。心配しないでいてほしい』と電話連絡」があったと記されている。


1972年12月11日(月)
手配中の近藤隆史と武原光志が、第一学生会館から文学部へのデモの途中路上で逮捕される。洗面道具・着替えを入れた風呂敷包みを持っており、計画的に逮捕されたもので妨害もなし。逮捕は革マル組織からの110番通報によるものだった。
[逮捕]
●近藤隆史
●武原光志


1972年12月13日(水)
近藤と武原は完全黙秘のまま東京地検に身柄送検される。


1972年12月29日(金)
拘置満了日。東京地検は近藤、武原2名を級友への暴力行為で身柄拘置のまま起訴した。2人は黙秘を続けており、1月早々には保釈決定が下りる見通しとなる。
[起訴]
●近藤隆史 暴力行為
●武原光志 暴力行為


1973年1月28日(日)
同じく、手配中の阿波崎、村上、佐竹が、革マル組織からの110番通報により横須賀市の臨海公園「空母ミッドウェー寄港阻止集会」で逮捕される。
横須賀署員が駆けつけて任意同行するも、黙秘・指紋採取拒否のため、警視庁公安一課職員が確認して逮捕。近藤、武原の完黙が成功したことで自信を深めたためか、歯ブラシなど身の回り品を持っており、前回と同じく計画的に逮捕されたもの。
[逮捕]
●阿波崎文雄
●村上文男
●佐竹実


1973年2月19日(月)
東京地検は阿波崎文雄を傷害罪で、村上文男を暴力行為で起訴(保釈)。
佐竹実は「現場には居たが暴行参加を裏付ける証拠が得られなかった」と容疑不十分で不起訴処分。
近藤、武原と同じく、阿波崎、村上、佐竹も完全黙秘を続けた。
[起訴]
●阿波崎文雄 傷害罪
●村上文男 暴力行為
[不起訴]
●佐竹実
【補足】警察による自白を狙っての逮捕は失敗に終わった。物証はほとんどなく、級友への暴行容疑による「別件逮捕」も、被疑者たちの完全黙秘により川口大三郎殺害に結び付けることはできなかった。


1973年2月22日(木)
田中敏夫(24)収監される。
1971年秋に反帝学評との抗争による凶器準備集合罪で逮捕・起訴され懲役8カ月の判決を受けた後控訴していたが、2月14日、高裁で控訴棄却となったため収監された。田中は川口大三郎殺害には関知していないと言っていたが、警視庁公安部は被疑者の一人とみて、新宿区弁天町の自宅を「被疑者不詳、不法監禁、殺人、死体遺棄」の容疑で家宅捜索した。


1973年3月28日(水)
革マル派全学連前委員長(11月10日に引責辞任)馬場素明(25)を立川署と警視庁公安部は逮捕した。容疑は、3月25日、自衛隊本隊移駐阻止集会の立川市曙町で起きた反帝学評との抗争事件での凶器準備集合罪と暴力行為の疑い。
【補足】田中も馬場も、逮捕の要件は反帝学評との抗争によるもので、国家権力との衝突が理由ではない。ここにも、革マル派の唱えた「戦闘」性というものが対党派に向いており、対国家権力ではなかったことがうかがえる。


1973年5月下旬
11.8当日リンチ殺害に関与したと推定される田中公郎、若林民生、後藤隆洋、水津則子ら革マル派メンバーの文学部構内への復帰が目撃されている。


1973年7月6日(金)
警視庁公安部は、専修大学生・山代康裕(21)を暴力行為の疑いで逮捕。6月13日20時頃、文学部正門前で2J級友(11月8日当日に川口大三郎を連れ戻そうとして暴行を受け、これまで裁判に証人として出廷してきた)にさらなる暴行を加えた容疑。暴行に加わったのは3名で、矢郷順一(一文)も含まれる。彼らは級友を革マル派が拠点とした第一学生会館がある方向に拉致しようとしたが、幸いにも逃れることができた。しかし、この事件が影響して級友は次の公判を欠席した。
[逮捕]
●山代康裕 暴力行為


1973年9月18日(火)
田中角栄首相は閣議で「早大リンチ殺人の犯人検挙はまだか」と異例の質問を江崎国家公安委員長に対して行った。


1973年10月20日(土)
未明、革マル派は全国12箇所で中核派拠点を襲撃する(第2次中核村襲撃)。この際、襲撃側の若林民生(二文自治会元委員長、11/13処分対象者=除籍)が逮捕、勾留される。
【補足】ただし、この時点では若林の川口大三郎殺害への関与は判明していない。(1974年4月22日参照)


1973年10月21日(日)
国際反戦デーのこの日、川口大三郎監禁致死の容疑で、村上文男(25)、武原光志(23)、佐竹実(23)、以上3名が宮下公園で、阿波崎文雄(26)が自宅にて逮捕される。服役中の田中敏夫(24)にも逮捕状が執行され、翌22日、別件で服役中の横浜刑務所内で逮捕される。
級友への暴行で保釈中の近藤隆史(24)元二文委員長以外に、水津則子(23) 一文文化厚生部長、後藤隆洋(25)一文組織部長、矢郷順一(25)、緑川茂樹(22)、他1名、計6名にも逮捕状。
東京新聞および産経新聞によれば、別事件で逮捕された革マル派の者の中に川口大三郎殺害に関する供述をした者がいて、逮捕・指名手配に結びついたという。
[逮捕]
●村上文男 監禁致死
●武原光志 監禁致死
●佐竹実 監禁致死
●田中敏夫 監禁致死
[逮捕状]
●近藤隆史 監禁致死
●水津則子 監禁致死
●後藤隆洋 監禁致死
●矢郷順一 監禁致死
●緑川茂樹 監禁致死
●他1名 監禁致死


1973年10月31日(水)
近藤、後藤、水津、矢郷が公開指名手配される。
[指名手配]
●近藤隆史 監禁致死
●水津則子 監禁致死
●後藤隆洋 監禁致死
●矢郷順一 監禁致死


1973年11月8日(木)
川口大三郎虐殺一周忌。拘留期限を目前にして田中と佐竹が自供を始める。取り調べは苛烈で、川口大三郎の撲殺遺体のカラー写真を眼前に突き付けて自白を迫ったと言われる。


1973年11月11日(日)
村上文男、武原光志、佐竹実、阿波崎文雄の4人が川口大三郎への監禁致死で起訴される。
田中敏夫は、犯行への参加や指示・命令した証拠がないため処分保留になったが「一人の命を奪ってしまったことを一生かけて償っていく。二度と学生運動はしない」と転向表明をした。
佐竹は自己批判書を取調官に提出。リンチの模様について絵をかいて説明するなど詳しく自供したが、遺体の運搬については「自分は関係しなかった」と言っている。
[起訴]
●村上文男 監禁致死
●武原光志 監禁致死
●佐竹実 監禁致死
●阿波崎文雄 監禁致死
[処分保留]
●田中敏夫
【佐竹実 自己批判書】※
川口君を死に追いやった本人として、そして当時一文自治会の書記長をやっていた責任ある者として、私が完黙(註.完全黙秘)をやめ、私の社会的責任を明らかにする心境になったのは、以下の理由によるものです。
それは彼の死に直接関係した私が、自己の社会的責任を明らかにすることによって、故川口君の冥福を心から祈ると同時に、川口君のお母さんに深く謝罪したいと考えたからです。さらに、現在の党派関係の異常性とそこにおける暴力的衝突を見るにつけ、かかる現状を深く憂い、二度とこのような不幸な事態がおこらないよう強く切望しているためでもあります。
私は川口君の問題を真剣に考えている全ての人々に次のことを強く訴えたいのです。
現段階の党派関係は明らかに異常といえます。このような現状の中で、党派闘争に暴力を持ち込むことに関して、真剣に慎重に再検討して欲しいのです。暴力の行使に際限はありません。そしてその結果は予測をはるかに越えるものがあります。
現に私は川口君を死に追いやろうなどとは、もちろん夢にも考えていませんでした。しかし結果はあまりにも悲惨なものでした。私は、私と同世代の人間的にも未熟な若い人々が暴力を行使することになれてしまうことが最も恐ろしいのです。傷つけ、傷つけられることを厭わない人間になることが真の勇気ではないと思います。人間の生の尊厳なくして人間の解放はないはずです。今こそ、この原点に立ち帰るべきです。
確かに、現在の党派関係と党派闘争を正常に戻すことは非常に困難なことでしょう。容易にできる問題ではないと思います。それには大きな努力が必要でしょう。しかし誰かがやらなければなりません。私はそのことを、川口君の問題を真剣に考えている全ての人々にやり遂げて欲しいのです。私の犯したような重大な過ちが再びおこらないことを強く切望するからです。社会の矛盾を変革するために自己犠牲的な活動を展開している人々が、お互いを傷つけあうことほど不幸なことはないと考えるからです。
現在、私は川口君という将来ある一人の青年を死に追いやってしまった自己の人間的未熟を痛切に反省し、あわせて川口君の霊が安らかならんことを祈っています。
川口君、そして川口君のお母さん、ほんとうにすみませんでした。
  昭和48年11月9日    佐竹実  母印
※三一書房『内ゲバ』より引用。一部を修正。
【補足】党派抗争での暴力を根絶したいという佐竹の願いは叶うことはなかった。革マル派は「公安当局の弾圧のもとで、暴力一切を否定するというブルジョア的人間観を注入されこれを粉砕し得ず、そうすることによって裏切り者となった」(『共産主義者』32号、木曾淳士こと黒田寛一)としか反応しなかった。彼らの佐竹への対応は後記の74年6月28日付読売新聞記事を参照されたい。また、これ以降20世紀末までに、党派抗争による死者が100名を超えたという厳然たる事実がある。


1973年11月12日(月)
警視庁公安部は村上文男、武原光志、若林民生を暴力行為と傷害の疑いで再逮捕する。容疑は1972年10月17日21:00、早大文学部34号館253教室に早大社会科学部3年A君(21)を連れ込み「おまえも共青(日本共産主義青年同盟)だろう。自己批判しろ」と言って、殴る傘で突くなどして15日間のケガをさせたというもの。


1973年12月16日(日)
佐竹の自供などから、警視庁公安部は、小石中也(22)(一文)ら6名を監禁致死容疑で全国に指名手配した(指名手配者は計12名に)。
[指名手配]
●小石中也(一文)ら6名 監禁致死


1973年12月21日(金)
拉致・殺害当日の深夜に目撃された、遺体の搬送に使われたと思われるオレンジ色の自動車は、革マル派活動家が所有する46年式のマツダ・ロータリークーペと特定された。(読売新聞12月21日付夕刊)


1974年1月29日(火)
警視庁特捜本部は、監禁致死容疑でさらに4名を公開指名手配した(毎日新聞)。
[指名手配]
●内堀真也 監禁致死
●田中公郎 監禁致死
●桶谷成行 監禁致死
●柘植隆治 監禁致死


1974年3月19日
東京地裁荻原昌三郎裁判長は2J級友への暴行事件で、阿波崎文雄に懲役1年、村上文男に懲役10ヵ月、武原光志に懲役8ヵ月(求刑:各懲役1年)の判決を下し、3名は控訴した。公判では、傍聴席を他大学生と思われる革マル多数が占拠し、刺すような目つきで証言する被害者を睨んだという。堪らずに級友の一人は、加害者の特定をする際に「知りません。忘れました」と証言した。なお、近藤隆史は公判に出廷せず、逃亡を続けている。
[判決]
●阿波崎文雄 懲役1年
●村上文男 懲役10ヵ月
●武原光志 懲役8ヵ月


1974年4月22日(月)
警視庁公安部は若林民生(27)二文自治会元委員長を川口大三郎への逮捕監禁、傷害致死の疑いにより東京拘置所内で逮捕した。
また同容疑で、池松恒美(23)一文自治会元情宣部長、緑川茂樹(23)一文自治会元常任委員、新井直樹(27)元日大文理学部生の3名を指名手配した。(なお、緑川には前年10月21日に逮捕状が執行されている)
5月10日、若林は監禁致死罪で起訴される。
[逮捕・起訴]
●若林民生 逮捕監禁 傷害致死
[指名手配]
●池松恒美 逮捕監禁 傷害致死
●緑川茂樹 逮捕監禁 傷害致死
●新井直樹 逮捕監禁 傷害致死


1974年5月13日(火)
馬場素明は、革マル派非公然軍事組織「特別行動隊」を率いて法政大学前に中核派を急襲し、前迫勝士(革共同東京東部地区委員長)を殺害する。指名手配されるも4年後の1978年5月18日現在、逃亡中(その後については不明)。
【補足】かつての革マル派全学連委員長も、出身母体が起こした事件の責任を取らされて汚れ役を押しつけられたのか。あるいは、もし自ら志願しての行動だったとしたら、彼にとって1972年11月18日文学部181教室での「暴力非行使」確約書への署名はどんな意味を持っていたのだろうか。


1974年6月28日(金)
佐竹実、懲役7年を求刑される。妨害を避けるため裁判は極秘とされたが、佐竹の“転向”に対する革マル派の反応は厳しいものだった。
☆読売新聞6月28日付夕刊
見出し:川口大三郎リンチ殺人“極秘公判”で求刑
    注目の佐竹七年 転向声明の“報復”恐れ
本文:(前略)監禁、傷害致死、傷害罪に問われた早大第一文学部自治会書記長、佐竹実(23)の論告求刑公判(第3回公判)が28日、東京地裁刑事13部(石田穣一裁判長)で開かれ、検察側から懲役7年の求刑があった。ところが、この日、公判が開かれたことは外部には一切秘密。佐竹が革マル派から転向したためで、佐竹自身も、同派の報復を恐れ「自分はどうなってもいい。家族にだけは危害を加えないでほしい」と訴えているという。
この事件は犯行現場が“密室”状態の教室だったため、捜査が難航。事件から約1年後の昨年10月になって、警視庁に逮捕された佐竹が転向を表明、その供述からようやく事件の全容が解明され、佐竹ら5名が起訴に持ち込まれた。
佐竹は、この時、「川口大三郎のめい福を祈るとともに、川口大三郎のお母さんに深く謝罪したい。暴力の行使には際限がなく、その結果は予測をはるかに越える」と内ゲバ横行を憎む自己批判書を書き、裁判も一人だけ分離を希望して、初公判から起訴事実をほぼ全面的に認めた。
しかし、革マル派から見れば、佐竹は裏切り者。山形県の親元や佐竹の弁護を受け持った大山秀雄弁護士のもとにはいやがらせの電話が続いた。このため、裁判所側も佐竹の安全を考え、公判期日や使用法廷は報道関係者にも“完全黙秘”という気のつかいよう。万一に備えて法廷の看守を増やし、本来なら法廷で当事者と打ち合わせて決める次回期日も「追って措定」に切り替えたほか、両親など情状証人4人の尋問も公判期日外に非公開で行った。
それでもさる3月の初公判の時には、どこで察知したか、東京拘置所から佐竹を乗せた護送車が東京地裁に着くと、学生風の男が3人つきまとい、法廷にも10数人が現れ、被告席の佐竹をヤジリ倒した。


1974年7月31日(水)
起訴された革マル派5被告の内ただ一人分離裁判を受けていた佐竹実(23)に対し、東京地裁刑事13部で石田穣一裁判長は、監禁・傷害致死傷害罪で懲役5年(求刑:同7年)を言い渡した。判決文は大学当局の責任にも触れており、各紙も見出しに「早大の責任も指摘」(毎日新聞)、「大学の事なかれ主義もしかる」(読売新聞)とそれぞれ記している。
[判決]
●佐竹実 監禁・傷害致死 懲役5年
☆朝日新聞7月31日付夕刊
「本件は被害者を中核派と思いこみ、一方的に大勢で暴行の限りをつくしたせい惨なリンチであり、暴力にマヒした革マル派の組織的な犯行というべきだ。いわば、起こるべくして起こった事件で、単なる偶発的な犯行とみることはできない。しかし、被告はその後、心境に変化をきたし、捜査当局に犯行を自供するとともに革マル派と手を切り、続発する内ゲバに歯止めをかけたいとの気持になっていること、大学当局が事後に適切な措置をとっていれば、被害者の死は防げたと思われること、など情状を考慮して懲役5年の刑を決めた。」
☆毎日新聞7月31日付夕刊
「川口君が中核派に関係していないのに、関係していると誤認し密室に監禁し、自分の思いどおりの返答がえられないとみるや、川口君の弁解には一切耳を傾けず、大勢で暴行し死に至らしめたものである。これは討論に名を借りたリンチにほかならなかった。川口君には落度はなく学内で起こったこの事件は戦りつを感じさせる。」しかし「被告は現在、暴力行為を反省し革マル派から離脱した。内ゲバ事件に歯止めをかけたいとし川口君事件の全容を捜査当局に供述した。川口君事件にも積極的に関与したのでなく幹部の指示に従ったものだ。」「大学当局が適切な措置をしていれば川口君の死という事態は防げたのではないか。」
☆読売新聞7月31日付夕刊
「暴力にマヒし切った革マル派の組織的犯罪であり、自派を絶対視して反対勢力に対しては、暴力に訴えていくかぎり起こるべくして起こった事件といえる。」「事件を早くから察知していた大学当局が適切な措置をとっていれば、川口君の死は防げたかもしれない。」


1975年2月12日(水)
金子賢治(二文元副委員長、11.13三役被処分者)を原宿署は殺人未遂、凶器準備集合罪などで再逮捕する。1973年11月26日、渋谷区代々木で中核派活動家とその妻を5人で鉄パイプ襲撃し、1カ月の重傷を負わせて逃げた疑い。


1975年2月19日(水)
東京高裁刑事4部で佐竹実の控訴審判決。寺尾正二裁判長は控訴を棄却。刑が確定した。
同刑事2部で阿波崎、村上、武原の川口大三郎級友への暴力事件控訴審判決。横川敏雄裁判長はそれぞれを減刑に処した。
[判決]
●阿波崎文雄 懲役8ヵ月
●村上文男 懲役6ヵ月
●武原光志 懲役6ヵ月


1976年3月19日(金)
川口大三郎への監禁、傷害致死などの罪に問われていた早大第一・第二文学部自治会元幹部4名に対する判決公判が東京地裁刑事10部で開かれ、佐々木史朗裁判長は以下の判決を言い渡した。
元二文自治会委員長・村上文男(27)に懲役8年(求刑:懲役10年)、同・若林民生(28)に懲役6年(求刑:懲役8年)、元同自治会副委員長・武原光志(25)には監禁と傷害致死幇助で懲役3年6ヵ月(求刑:懲役5年)、元一文自治会会計部長・阿波崎文雄(28)に監禁罪(傷害致死を除く)で懲役2年(求刑:懲役5年)。武原、阿波崎は川口大三郎殺害には直接関与せずと判断された。また、村上、若林、武原には72年10月17日の共青学生への暴行が併審されたが、いずれも控訴した。
[判決]
●村上文男 懲役8年
●若林民生 懲役6年
●武原光志 懲役3年6ヵ月
●阿波崎文雄 懲役2年


◆それから後の事件関係者の動向
【村上文男】
『梯明秀との対決』(1979年7月1日、こぶし書房)を刊行する。革マル組織から“一部の未熟な仲間”と切り捨てられた当事者の村上文男の弁明。府中刑務所内での心情を綴った「あとがきにかえて」部分にも川口大三郎殺害への反省の記述はない。黒田寛一は『共産主義者』23号で “未熟な部分”を「同時に指導部の未熟性の一表現でもある」と擁護した。殺害の直後には組織から“未熟”と否定された者が、こぶし書房から著書を刊行できたのは、これが理由ではないだろうか。つまり、川口大三郎リンチ殺人は決して未熟な“部分”が引き起こしたものではなく、革マル派という組織そのものによる犯罪だったということだ。
【竹内政行】
1998年1月7日、非公然アジト「豊玉アジト」が摘発され、「神戸連続児童殺傷(酒鬼薔薇聖斗)事件」に関して検事調書を盗んだ事件他で革マル派活動家1名逮捕、17名が指名手配された中に竹内政行(元二文書記長で11.13被処分者)が含まれる。彼は2005年11月30日、警視庁に出頭し、窃盗と建造物侵入容疑で逮捕される。
桶谷成行もこの事件に関与したようで、2004年に裁判にかけられた記録が残されている。
【水津則子】
2000年2月8日、水津則子(49)は他4名とともに警察無線傍受の疑いで指名手配される。「浦安アジト」で警視庁無線を傍受し、交信内容を練馬アジトに通報していた疑い。
【大岩圭之介】
第一文学部自治会副委員長として11.13に無期停学の処分を受けるも、革マル派として活動を継続。その後は海外に逃亡し、帰国して「辻 信一」の名前で表現活動を続けている。


◆川口大三郎虐殺に関与したとして指名手配・逮捕・起訴された者の氏名
判例:×は実刑
   △は指名手配(逮捕状執行)されるも逃亡
× 村上文男 二文
× 若林民生 二文 (11.13三役被処分者)
× 佐竹実 一文 (11.13三役被処分者)
× 武原光志 二文 (11.13三役被処分者)
× 阿波崎文雄 一文
処分保留 田中敏夫 一文 (11.13三役被処分者)
△ 近藤隆史 二文
△ 後藤隆洋 一文
△ 池松恒美 一文
△ 緑川茂樹 一文
△ 矢郷順一 一文
△ 水津則子 一文
△ 田中公郎 一文
△ 小石中也 一文
△ 桶谷成行 法
△ 内堀真也 政経
△ 新井直樹 日大
△ 柘植隆治 明学
△(氏名不明4or5名)
以上、直接関与した者としてわかっているのは22もしくは23名。うち逮捕・起訴・判決・収監された者は5名のみ。他の動向は不明。
【補足1】以上が「事件」に関与した全員とは思われない。佐竹の供述には、遺体の処理・運搬に携わった者の氏名は含まれていない。上掲の20数名の以外にも、拉致から遺体破棄までには、革マル派上部団体の幹部等が関わっていたことは想像に難くない。なお、黒田寛一は、1996年10月に革共同(革マル派)議長を辞任し、2006年に死去した(享年78)。
2015年に刊行された『革マル派五十年の軌跡(第2巻)』には「総決起集会の会場に結集しつつある過程で川口大三郎君のスパイ活動が摘発されたのであった。彼は中核派学生活動家の一人として一貫して中核派の活動を現実に担い、また当日は総決起集会の周辺において結集過程のスパイ行為をおこなっていたのである」と中央学生組織委員会による1972年11月11日付とされる文章を引用し、川口大三郎スパイ説を喧伝し続けている。
【補足2】川口大三郎が中核派のスパイだったとする革マルの主張は、党派闘争という文脈で語ることによって、死に至る拉致監禁を正当化するために後から貼られたレッテルである。川口は72年4月以降、ごく短期間早稲田の中核派フラクションで行われていた学習会に参加していたが、夏には連絡を拒否していたという。72年11月当時、川口が中核派と繋がりがなかったことは、家族や級友、そして中核派フラクションの責任者によって証言されている。また、後日の事実確認によって、11.8当日に関する革マルの主張が時間的に矛盾することが明らかになっている。
それにも関わらず、11.8以降中核派は、機関紙「前進」で「川口君はこの春以降、わが全学連の戦列で一貫して戦闘的に闘い抜いてきた」(1972年11月20日付第610号)と、川口の死を自派の党利党略に利用した。革マルもまた「川口君の死を深く反省し、直ちに自己批判したわれわれこそ追悼の資格がある」と一周忌に声明を出すなど、川口の死を他党派排除の口実にすることをためらわなかった。
【補足3】その後、党派間抗争、とくに革マルと中核の勢力争いは熾烈を極め殺し合いの様を呈するようになる。学生運動史などでは、川口の死を抗争の一人目の犠牲者として位置づけており、あたかも川口が党派に属していたがゆえに殺されたと言わんばかりの記載もある。しかし実際は、革マルが早稲田大学内での支配強化を図る過程で、ノンポリながらクラス討論などで目立つ言動の多い川口に目をつけ、計画的に拉致し暴行することによって脅し、活動を抑制しようとして死に至らしめたのだ。
【補足4】川口が早稲田の中核派フラクションに顔を見せていた当時、同じく一文ロシア語クラスの1年生がフラクションに参加していた。革マル系文連傘下の「漫画研究会」に属していたこの人物は、後に革マル派のスパイであったことが中核派によって明らかになった。


◆その後の大学当局と革マル
革マルの利益のためばかりでなく、大学当局にとっては学園の“正常化”を装うために強行された1973年の第20回「早稲田祭」だったが、その後も「早稲田祭実行委員会」を隠れ蓑にした革マルによって1996年の第43回まで継続した。しかしながら、学生はもちろんのこと教職員であっても入場券代わりのパンフレットを購入しない限り期間中はキャンパスに入れないという異常事態を招いた革マルの横暴ぶりを、さすがに大学当局も看過できなくなったようで、不正経理を理由に1997年以降、早稲田祭は中止となった。この時、当局が持ち出したのが1973年に締結された『早稲田祭実施にあたっての五原則』だった。
また、1995年には「商学部自治会」を非公認とし、1998年には「文連(文化団体連合会)」常任委員会への便宜供与を中止。1999年には「早稲田大学新聞会」の大学公認サークルとしての承認を取り消し、2000年には文連加盟サークルへの補助金(1サークル当たり年間35万円)の支給を中止した。さらに2005年3月になって、社会科学部自治会の公認および便宜供与を廃止した。
早稲田祭および文連への利益供与や商学部・社会科学部の自治会費名目によって、90年代には年間2億円もの金が大学から革マルに流れていたとのことだが、ようやく革マルとの腐れ縁が切れたのは、実に川口大三郎の死から31年4ヵ月の時が経過した後のことだった。


◆総長と11.8
「俺は早稲田が好きだ」と言っていた川口大三郎が早稲田に入学した時の総長は、第10代に当たる村井資長だった。村井は、第一早稲田高等学院を経て早稲田大学理工学部応用化学科を卒業。修士課程、博士課程を修了してのち、助手、専任講師、助教授を経て1954年教授に就任。学部長、教務部長、常任理事を歴任後1970年から1978年に第10代総長を務めた。総長としては、早稲田大学100周年記念事業として、新キャンパス造成、新学部設置計画を推進した。
1998年、村井は自伝ともいえる『早稲田の杜は生きている――村井資長の証言』を出版した。その中で学生運動について「強い同志的結束を持つ学生集団間で仇敵のように憎しみあい、傷つけあうことは断じて許されることではありません。ガンジーの〈霊の力、真理の力に立つ非暴力、不服従〉こそ大学に相応しい学生運動の一つの指針ではないでしょうか」という記述のあと次のように続けている。「ところが、昭和47年(1972)年11月、文学部の学生、川口大三郎君がセクト間抗争の巻き添えにあって、学内で虐殺されるという事件が起きた。これを機に各学部の自治会再建運動が沸き起こり、学内は再び紛争の嵐の中にたたきこまれたのである。講義中の私が、突然教室に入ってきた黒ヘルの集団に拉致され、断交を要求されるということもあった。私は、学生たちと対決する姿勢では問題は少しも解決しないことに確信を持っていたので、できる限り話し合おうとした。学生たちが、自らの学内の平静を求めた結果、川口君事件に端を発した学内の嵐は、翌年秋には静かになったのである。この頃の教授会、学部長会はいつもまるで眠っているようなものであった。何を提案しても賛成もしなければ、反対もしない。長い紛争に学内全体が疲れ切っていたのだ。」
その後村井は、大隈講堂での統一協会会長の久保木修己による講演会を許したり(1974年11月)、「川口記念セミナーハウス」建設をめぐって自らの所有する土地の提供を申し出るなど早大原理研究会と親密な関わりを持ったが、やがて決別して1978年に「原理運動を憂慮する会」を結成し、その世話人となった。同年発行の『週刊ポスト』の記事に関して統一協会から名誉毀損で訴えられたが、1986年の一審で原告(統一協会)の請求が棄却されるも1988年に二審で和解。1992年は『週刊文春』掲載の手記で再び訴えられて8年の裁判を経て和解した。なお、この和解については統一協会側の資料に依っており実態は不明である。2006年没(享年96歳)。


参考資料:
◎各紙縮刷版、国会図書館所蔵マイクロフィルム
◎『内ゲバ』滝川洋、磯村淳夫 共著 三一書房1975年刊
◎『警察白書』各年度版
※指名手配等の日時は新聞によって異なる場合がある。