川口大三郎と私 第一文学部2年T組 Y・N

提供: 19721108
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それは、吐き気と食欲喪失から始まった。1972年11月9日木曜日に川口大三郎君殺害のニュースをテレビで見た時だ。私は下宿で、身体を屈曲したまま踞って暫く立ち上がれなかった。世界が胃の中から裏返しになったような感覚だった。親しくはなかったが会ったことはある。同じ大学の同じ学部の同じ第二学年の同じ中国語のもう一つのクラス仲間。彼が教室で前の晩、学生自治会にリンチ殺害された。私は実際吐いた。何か朝食をとった後だった。吐ける事で身も精神も守るように、人間の身体はできているのかも知れないと、後に思った。
その日は授業はなかったのだが、掴み所もないまま誰かに会いたくて茫洋と登校した。誰も居なかった。居るかも知れないと思って、キャンパスの近くの麻雀屋に行くと、案の定、クラスの四五人が打っていた。最も堕らけた、良く言って普通の連中だ。川口君の事、知ってるかと問うと、知っていると牌を振りながら言うのだった。許せねえよなあ、ローン、みたいな連中。こいつらが実はその後のクラス討論やデモの中心になる。
そんな風にして、私達の2T(中国語二年Tクラス)は蠢き始めた。この連中は、その麻雀屋の屋号を採って、「西田派」なるプラカードを掲げて、デモや学生大会に馳せ参じる。これは当時の新聞の報道写真に残っている。私達はそんな普通の学生だった。とにかく、明日の語学の授業でクラス討論しようと約して分かれた。
一晩考えた。週末を挟んで来週にクラス決議になると遅くなる。どうせなら翌日のクラス討論で決議したい。私は徹夜でクラス決議案を書いた。
11月10日金曜日は大学が休講措置をとった。それを知らずに多くの学友がいつも通り20数人集まった。クラス決議案を討議し一字一句修正した。私は後に引かない覚悟で、賛同の者の氏名を列挙すると言った。一人か二人の女子学生が身を震わせて号泣し、怖いから賛同できないと言った。それはそれでいいからと皆で慰めた。
その日のうちに紙やマジックペンを買って作業をして、翌日11月11日土曜日、早朝に文学部キャンパスに数名で行き、革マルの立て看を剥がして張り付けた。決議ビラにも氏名を列記した。立て看を拝借する際に見つかって、「殴られるのは嫌だねえ」とE君が言ったので、朝飯も食わずに7時頃に行ったのだ。これが最初の革マル自治会糾弾の立て看だった。以後、全学でクラス決議は林立した。この日、私達は後戻りできない別の世界に足を踏み入れたのだった。政治党派とか何にも知らない只の正義派で怖いもの知らずだった。
今は2017年だから、それから45年経っている。
このクラスは四年に一回、クラス同窓会をやっている。E君は病没したが、20人程が集まり、もう二回やった。執念で数年かけて住所等を突き止める作業をやった者がいて、私のような中退組も含めて名簿が出来上がったのだ。曰く、専門のクラスにはない思い出がこの教養課程の語学クラスにあると。あの川口君虐殺糾弾の闘いが、このクラスのアイデンティティになっている。
ここまで書くと、2Jの諸君と同様に、どうせばればれなので記せば、第一文学部臨時執行部の副委員長に私はなった。色々あった。早稲田前史から生き残った行動委員会系の諸君とは反りが会わなかったが、K君(故人)ほかには今でも敬意は抱いている。最後には精神的に敗北して、私は逃亡するようにして退学した。でも、心の底では今でも折れていない。単に戦術的に敗北した。あれ以上、多くの学友が傷つくのは避けたかった。我々は党派ではなかったのだから。いずれ記すが、第一文学部非公然武装部隊まで私達は編成して闘った。武装とは武器が問題なのではない。何を武器とするかである。言葉もある、詩もある、音楽もある、人糞爆弾もある、たまに鉄パイプを選んだ者も居ただけである。守ったのは己の言説である。鉄パイプが重たくて振れないと泣いた女子学生(K.M)も、自らの武器を選んで闘った。ともあれ、あまり過去を美化してもいけないと思う。負けは負けである。男の論理で闘おうとして、女性の心をひどく傷つけた。それが一番の敗北かも知れない。
その後、どう川口君の事を抱えて生きてきたか。それを皆で語ろうとしている。だからこの会も始まったのだ。
私は中退後、長く労働運動の世界に居た。自分も争議団だったので褒められたものではないが、早稲田の出来事は良く知られていて、時に新左翼同士の紛争の調停に役立った。革マルの組合もあって、偉くなったもんだねえ、と脅されたこともある。ひょんな切掛けで国際協力の世界に入り、大雑把に言えば、日本とは比べ物にならぬ抜き差しのならない途上国の貧困との闘いに、打ちひしがれた。たくさん傷ついた。どうにもならなかった。国連選挙監視団で行った時、私の目の前で警官隊が民衆に発砲した。日本の左翼なんてお坊ちゃんに思えた。それで退路を断って勉強した。そしたらひょんなことで開発学の教授になってしまった。昔、高橋和巳なんか愛読して大学解体なんて叫んでいたのに、50歳にもなって生きて行く術はそれしか残ってなかった。
大学の教壇で、私はいつも川口君のことを、早稲田の運動を学生達に語った。
自分の人生は一つの物語であろうと思う。私のそれに川口君はいつも陰に陽に、悪く言えば付きまとって、良く言えばいつも居てくれた。だが、問題は川口君にそのような物語が無いことである。何も無いという彼の45年間を、せめて私達で埋め合わせていきたい。それが、2Jが発したメッセージであろうと思い、私はこれからもこうして自分を晒して行く積もりである。Mさんも書いているように、私達が生きて行く限り「11・8は終っていない」のである。